北尾雪坑斎『古今弁惑実物語』より

鐘を叩く女

 昔、紀州日高に、旅人を泊める宿屋があった。夫婦二人で切り盛りして、娘が一人いたが、その娘が十七八の頃、両親ともに身まかった。
 一人残された娘は、親の残した宿屋の女主人として、世を渡ることになった。

 そのころ、熊野へ参詣に通う山伏がいて、この宿が久しく定宿だった。親の代から懇意にしてきたこともあり、女主人の力になって、買い物やら節季払いの手伝いやら、万事につけて世話をした。
 女主人のほうも、山伏にすべて相談して頼りにするうち、親戚とてない独り身だから、だれが許したというのでもないけれど、いつしか深い仲になった。それとともに宿屋の経営にも身が入り、なかなかに繁盛するようになった。

 しかし、「飛鳥川の淵は瀬となる世のならい」という。
 やがて山伏は、宿の飯盛り女と出来合った。人は知らないと思っていたが、「悪事千里を駆ける」のたとえどおり、女主人は噂を漏れ聞いて、嫉妬の炎を燃え上がらせ、山伏が来るのを待ち受けた。
 そうとは知らずにやって来た山伏。まずは女主人と互いの無事を喜び合い、洗足を済ませ夕飯にかかると日は西山に沈んで、やがて夜も更け、泊り客も寝静まった。
 おもむろに、女主人は山伏に、
「父母を早くに亡くし、頼む身寄りのないわたしが、飢え凍えることもなく、家業を続けられたのは、あなた様の情け深さのおかげ。その深い情けで、このごろわたしは、ただならぬ身になったようです。このうえは当地に引っ越して、わたしと夫婦になってください。この宿を一緒にやってゆきましょう」
と、切々と訴えた。山伏はそれほど慌てず、
「ことさら急ぐ話でもないな。とにかく、そなたのためになることなら何なりとしよう」
などと宥めすかした。
 そうして女主人が寝入ったとみると、そっと抜け出し、飯盛り女の寝屋へ行って女を誘い、行く当ても定かでない駆け落ちとしゃれ込んだ。

 しかし、女連れの道ははかどらない。
 いつ追って来たのか、背後から女主人の声がする。
「止まれぇ、待てぇ!」
 振り返り見れば、髪はおどろに乱れ、紋尽小紋の布子に鱗形模様の絞襦袢が脱げかけて、一丈ばかりの大蛇のごとく帯を引きずり、
「待てぇ、戻れぇ!」
と、割れんばかりに怒り罵る声が耳を聾する。
 足が震えて、もはや一寸たりとも動けず、そこにあった古寺に、かくまってくれと頼み込んだ。
 寺の僧は、隠す場所がないからと、伏せた鐘の中に入れてやった。思えばこれが運の尽き。
 ほどなく追いついた女主人は、寺の内をあちらこちらと探し回った末、
「どうも、この鐘が怪しい」
と、竜頭に手をかけて押し動かしたが、女の力では覆すことができない。
 そこで、本堂にあった鐘叩きの撞木を取ってきて、鐘の周りを叩きに叩いて七日半、その場を立ち去らなかった。
 山伏は、鐘の響きと空腹と、息の籠もるのに堪えかねて、ついに命を落としたのだった。

     *     *     *

「なんと恐ろしき物語か」と、こんな話をしたところ、人々は、
「うーん、耳慣れた話のようでもあり、初めて聞くようでもあり……」と首をかしげた。
あやしい古典文学 No.1156