古賀侗庵『今斉諧』巻之四「八月之怪」より

八月の怪

 文化六年八月某日夕刻のことだ。
 激しい風雨の中を、下谷の召使の少女が酒を買いに出たところ、道の途中で虚空に拉された。
 少女は、本所の晒油絹場に墜落して死んでいた。その死体は全くへなへなで、まるで骨がないかのようだった。
 下谷辺りと本所では、一里あまりも隔たりがある。何もののしわざであろうか。

 同日の晩、下谷の紀伊国屋という宿屋には、数人の客があった。
 宿の主人が上楼の雨戸を閉め忘れたと言うので、妻は燭をともし、下女を一人連れて楼に上った。
 おりからの風雨で燭の火はたちまち吹き消され、下女は怯えて楼から逃げ下りた。
 妻は、一人で雨戸を閉めようとして、不思議な火が夜空を横切るのを見た。点々と星のごとく、連続して通るのを、一つ、二つ…と数えて、九つまで数えた。
 九つ目は最も大きく、妻は恐怖が極まって絶倒した。家人が駆けつけて介抱し、息を吹き返したという。
あやしい古典文学 No.1159