西村白烏『煙霞綺談』巻之四より

兵法の達人

 戸田流の兵法の達人で、富永金左衛門という浪人がいた。
 富永は江戸西久保の榎坂の上の借家に住んだが、その家には夜ごと何ものかが来て、あれこれと悩ますのだった。
 『人間のすることではあるまい。おそらく狐狸の仕業だから、退治してやろう』と思って、寛永十一年正月十五日の夜のこと、普段の寝床には自分が寝ているように形を拵え、自身は部屋の片隅に潜んで待った。
 狙いどおり、夜中の三時を回ったころ、戸を開ける音もなくて来たのを見れば、両眼を星のごとく輝かせた、なんとも言いようのない凄まじい形相のものだった。
 そいつが拵えた寝姿の上で飛び跳ねて暴れるところを、ここぞとばかりに斬りつければ、確かな手ごたえがあった。深手を負って竹簀子(たけすのこ)の下へ逃げるのを追いかけ、なんなく二の太刀で仕留めた。
 胸元へ深々と脇差を突き立てたのを、灯火をかかげて見れば、幾年経たとも知れぬ古狸であった。
「化け物、仕留めたり」
 声高く呼ばわると、近所の者は驚いて、家主以下が駆け集まり、顛末を聞くや、
「さすがお侍だ」
と口々に褒めた。家主は、
「富永様が来られるまでは、この狸のせいか、二ヶ月と住み続ける人がいませんでした。これで化け物の根が絶えて、安心でございます」
などと喜んだ。
 いささか調子に乗った富永は、翌十六日の朝、居宅の入口に狸をぶら下げた。
 往来の人が珍しい見世物に群集したが、しかし、その評するところを聞けば、
「このどさくさと騒がしい市中に、狸など棲むだろうか」「糀町で仕入れたのを吊って、世間をたぶらかすつもりにちがいない」
などと悪口しきりである。それゆえ、二時間ほどで狸を中に引っ込めた。

 この出来事は結局、富永の嘘のように取沙汰されてしまった。
 富永は親しい人にも顔向けできないと思ったのか、住所をあちらこちらと転々とし、後には行方知れずとなった。
 当時、富永をよく知る人は言った。
「常に我が兵法を鼻にかけて高慢だったから、そこに魔がさしたのだろう」と。
あやしい古典文学 No.1171