平尾魯遷『谷の響』五之巻「沼中の主」より

沼底に棲むもの

 食川村の清助という者が語った話である。

 天保某年の六七月であったろうか、清助は暑さを避けようと、村はずれのアシケ沼の水辺に行き、蚕の殻を水に投げて、小魚が跳ね上がるのを見て楽しんでいた。
 すると突然、水面が大いに揺れて波紋が広がった。なんだろうと身を乗り出して覗いたら、水底に大きな牛のごときものがいた。全身が白く、牛そのままの頭で、両目も鼻も口もはっきりと見えた。
 『これこそ、話に聞く沼の主にちがいない』と思うと、ぞっと身の毛が逆立った。急いで立ち去ろうとするとき、沼水はにわかに潮騒のごとく鳴り響き、大波が逆巻いて岸の道に溢れ出た。清助はいよいよ恐ろしく、ほうほうの態で逃げ帰った。

 アシケ沼には、かつて村の男が飼っていた葦毛馬が、ふと狂乱して沼の中に躍り込み、ここの主に変じたという言い伝えがある。
 五六十年前までは、ときおり水底を泳ぐのを見ることがあったと聞くが、最近は見たと言う者がいない。また、ここは小魚が多いため、里人はよく網を下ろし釣り糸を垂れるが、怪しいものに遭ったという噂もない。
 だから清助も、沼の主が出現するなどと夢にも思わなかった。しかし今、現にそれを見ては、古人の言い伝えを軽んてはならないと思い知ったのだった。
 葦毛馬が沼に入ったのは、二百五十年も前のことだという。以来、今に至っても怪事をなすとは、まったく恐ろしいものだ。
あやしい古典文学 No.1174