菅江真澄『筆のまにまに』より

肉芝

 出羽の秋田郡比内荘は、上津野の米代川の南に位置する。そこに、「間當(まとう)」という村がある。
 古くから人の住んだ土地で、もとは「松尾」だったが、里人が「まとお」と訛るのをそのまま字に写して「間當」となったそうだ。
 間當の八幡宮は、広大な境内に数多くの欅(けやき)の大木が生い立つ。その中に「親槻(おやつき)」と呼ばれる神木がある。
 神木の根本の周囲は、四丈八尺五寸。しかし、いかにも古木で、半分は朽ちている。ずっと昔、この村の一青年が双葉の苗を植えたものだとの言い伝えがある。

 青年が老人となったころ、その家に、おりおり一人の老法師が訪ねて来た。
 老人は法師を常に親しくもてなし、面白く酒を飲ませるなどしてから帰した。そんな中で約束でもしたのか、ある秋の日の早朝、老人は、
「茸がりに行こう」
と、知り合いの男を誘って出かけた。
 李代(すももだい)という奥山里からさらに山中に分け入って、一軒家の笹葺きの庵があった。
 老人が案内を乞うと、かの法師が現れて、
「これは、これは。よくぞおいでくださった」
などと言いながら、柴を折って火をたいてくれた。
 親しく語り合い、濁り酒をあたためて、
「お気に召しますかどうか」
と、まず茸の酢の物を出してきた。続いて、
「さて、今から珍しい料理をいたしますが、この老いぼれ坊主が立ち騒ぐところを、けっしてご覧になりませんように」
 こう言って物陰に入ったのを、老人とともに来た男が、何気なく隙間から覗き見た。法師は、何か知れない甚だ不気味な肉塊を盤に載せ、短刀を抜いて切り分けていた。
 男はゾッと身の毛がよだって、その場にいたたまれず、小用を足すふりをして外へ出た。その足で野を駆け山を越え、村まで逃げ帰ると、
「危ないところで命拾いしたよ」
と、妻にだけ打ち明けた。
 いっぽう残った老人は、酔っ払って上機嫌、すっかりくつろいでいた。
「ああ楽しいな、楽しいな。なんだか知らんが、出てくるものは遠慮なく食べよう」
 法師が作って出した肴を、
「旨い、旨い。こりゃ旨い」
と舌鼓を打ちながら食いに食った。酒も心ゆくまで飲んで酔いしれ、夜になってから間當に帰った。

 法師が作った肴は、山や里にごくごく稀に生える「肉芝(ふけず)」というものだった。つまり老人は、「不老薬(ふけず)」を食ったわけである。
 それ以来、身体に病の一つもなく、姿はずっと六十歳くらいで変わらないまま、六七百年を過ごしたと思われる。
 正徳・享保のころ、蝦夷の松前へ渡った人が、
「むかし秋田の松尾村に住んで、神の欅を植えた人が、しかじか言った」
と、六十あまりの老人からの伝言を持ち来ったことがあった。その老人は、今も松前の奥地で生きているらしい。

「肉芝」は菌(きのこ)であり、貝でもあるから、海・山に入って探すべし」
と土地の物知りは言う。はたして、どうなんだろう。
 青年期に植えた神木の樹齢から推定すると、老人は、七十四代鳥羽天皇の天永・永久のころ産まれた人ということになる。文政の今は、はや七百余歳に及ぶはず。不死の妙薬によって長生きした清悦や常陸坊海尊の物語にひとしい。
あやしい古典文学 No.1186