『奇異怪談抄』上之上「馬頭娘」より

馬頭娘

 中国神話時代の五帝のうち、小昊(しょうこう)の治世のとき、蜀の国に一人の娘があった。

 あるとき、娘の父が、戦いで敵の捕虜となって連れ去られた。娘は父のことが心配で、食べ物が咽喉を通らないほどだった。
 その様子を見て母も深く心を痛め、人々を前にして誓って言った。
「わが夫を連れ帰った者には、娘を妻として与えましょう」
 家で飼われていた馬が、それを聞いて武者震いして躍り上がり、縄を引きちぎって駆け出した。
 日を経て、馬は父の居所に辿り着き、父は馬に乗って家へ帰ってきた。

 しかし、それからというもの、馬はしきりにいなないて、ものを食わない。母は、先の誓言のことを父に語った。
 聞いた父は、憤然として言い放った。
「人に誓ったのであって、馬に誓ったのではない。人を畜類の妻とするなど、あってたまるものか。たとえ我を苦難から救った功があろうと、馬を相手に誓言を守る筋合いはない」
 馬はその晩、猛然と暴れ狂った。
 父は怒って、馬を射殺した。さらに馬の皮を剥いで、庭に張り広げた。
 すると、そこへ一陣の風が吹いて、皮がまくれ上がり、娘の体を巻いて、いずこへともなく飛び去った。

 十日ばかりすると、飛び戻って、桑の木の上にとどまった。娘は化して蚕となり、桑の葉を食っては糸を吐いた。
 これが、蚕糸をもって絹を織ることの始まりである。
 やがて、父母の目には、娘がかの馬に乗って、男女数十人を従え、雲を凌いで昇天する姿が映った。娘は返り見て言った。
「どうか心配しないでください。わたしは信義を忘れなかったので、天の命により、天人となるのです。そして、また天下って、仕邡(しほう)、綿竹(めんちく)、徳陽の三所に住むことでしょう」

 以来毎年、四方から人が群れ集まり、娘を蚕の神として祈った。また、各地に娘の像を造り、馬の皮を着せて、これを「馬頭娘」と呼んだ。
あやしい古典文学 No.1187