人見蕉雨『黒甜瑣語』第三編巻之四「早口沢」より

早口沢

 秋田の早口沢は、二十七里にわたる渓流である。
 寛政九年七月、この沢の六里ほど入ったところに、一夜のうちに長大な堤が出来た。両方から山を崩して流れを堰き止めているのだが、見れば径十数メートルを超える大石で築かれていた。
 いったい何ものの仕業だろうか。
 この辺の山には錦織木(にしごり)という木があるので、山童(やまわろ)、鬼童などが群がり集まるともいう。
 鬼童とは、山中で時おり見かける、童子のような姿の怪物である。先年にある人が見た大きな鬼童は、十人がかりでも抱えられな い大石を背負ったまま、うつ伏して谷水を呑んでいたそうだ。

 木こりが山中で退屈したときは、必ず錦織木を焼いて、いろいろな怪物を集めて遊ぶ。
 南部領との境の山奥で焼いたときには、怪しい女が出てきた。
 苔の衣を身に纏い、茨のように乱れた長髪は白い針金のようだったが、齢はまだ四十前に見えた。毛女郎とか雪女などの仲間なのかもしれない。にんまり笑って擦り寄ってきたので、木こりも変な気になって女を犯した。その後は、時々この怪女と逢って交わったという。
 いかがわしい話であるが、けっして偽りではないらしい。木こりなどというものは、ひとたび淫欲を起こせば、牛馬の類までも犯すのである。

 また、こんな話を聞いた。
「寛政七年の四月末のことだ。小阿仁の仏社村というところに沼があって、むかしから怪獣が棲むといわれていたが、ジュンサイ採りの農夫がその怪獣に殺された。農夫の弟は激しく怒って、阿仁の小沢鉱山の鉱石を運んできて火に燃やし、真っ赤に溶解した大量の鉱石を沼に打ち込んだ。怪獣はこらえきれなかったか、岸からだいぶ離れた場所に一夜にして大堤を造り上げ、その中へ移った」
 早口沢の堤もこれと似たようなことではないかと、人々は噂しているそうだ。
あやしい古典文学 No.1192