堀麦水『三州奇談』五ノ巻「異獣似鬼」より

山中の異怪

 狒々(ひひ)という怪獣は、大いに風雲を起こし、その中を飛行する。また、よく人を放り投げ、引き裂いて捨てる。
 伊折村の源助は、木こり衆の中の頭目格の男で、腕力が際立ち、走力もすぐれていた。
 ある日、源助は二三人の仲間とともに、獣を捕らえて煮て食おうと山へ入って、一日のうちに猿・狸の類を七十余匹獲った。すべて刀を用いず、拳で打ち殺した。それほどの剛の者だった。
 同じ伊折村に作兵衛という者がいた。やはり木こりで、源助の仲間だった。
 木こり衆は、「井戸菊の谷」という所に初めて入ろうとしたが、狒々の風雲が起こり、人が次々に投げ飛ばされた。結局谷に入ることができず、引き返そうとしたときだ。
 作兵衛は少し気の弱い者だったのか、風雲の猛勢に打たれて気絶してしまった。怪獣はいよいよ勢いに乗り、作兵衛を空中に引っ張り上げ、腕を掴んで引き裂こうとするらしい。しかし、このとき仲間の木こりは隣の谷まで去っていて、起こっていることに気づかなかった。
 ただ源助一人は、作兵衛が遅いのを怪しんだ。元の場所へ戻ってみれば、すでに作兵衛の足は地面を離れ、両手が左右に伸びきっている。源助は駆け寄って両足を掴み、引き下ろそうとしたが、空中でがっしりと襟髪を咥えているらしく、まったく下ろせない。まるで盤石を引こうとするのに異ならなかった。
 作兵衛は魂が抜けたかのようになって、口からおびただしく血を流した。源助は地上にあって、烈しく怒り叫んだ。
「上にいる畜生ども、おまえらに作兵衛を渡すものか。今に俺が一々掴み殺してくれるぞ。それが嫌なら、すぐに作兵衛を放して去れ」
 空中の怪獣は、いっこうに放そうとしない。源助はさらに大声を張り上げた。
「おまえら、この俺を知らずしてこの山に住めると思うのか。おのれ、引きずり下ろして微塵にしてやろうか。言うことを聞かないなら、たとえ百年たとうと許さんぞ。おまえらの息の根を止めるなぞ、俺にはたやすいことだ」
 空中のものは、それでも放さず、日が暮れた。他の者は谷を隔てて気づかず、助けに来ないが、源助はあきらめる気などさらさらない。
 真夜中の十二時ごろになって、作兵衛の目や口からはいよいよ血が溢れ落ち、源助は全身血に染まった。それでもひたすら頑張っていると、午前四時ぐらいになって怪獣が去ったらしく、作兵衛は源助の背中に落下した。
 源助は作兵衛に声をかけ続け、力の限り介抱して夜を明かした。
 日が昇ると、谷の向こうまで帰った仲間たちも戻ってきた。作兵衛に生気が残っていたので、山小屋に寝かせて水を飲ませ食物を与えするうち、五六日で恢復した。
 こんなことがあっても、源助は仕事を休むことなく、またもや「井戸菊の谷」に入って、谷一番の巨木を伐り倒した。しかし、今度は何の怪異もなかった。

「こんな怪異は、天狗や山神が起こすのではなく、みな怪獣の仕業だ」
と、源助自身が筆者に語った。その中の一つに、蛇怪があるという。
 蛇怪は恐るべきもので、それゆえ必ず山刀を背負って行く。山刀が背中にあれば、蟒蛇に呑まれることはない。刀の類を持たないと、その人は必ず行方知れずになる。
 木こりの仲間に駄兵衛という者がいた。なかなか強い男だったが、山刀を邪魔だと言って差したがらなかった。皆が勧めて差させても、ややもすれば怠ることがあった。
 あるとき、久しく山刀を差さずにいたことがあって、それでもひと月ばかりは大丈夫だったが、ある日の真っ昼間、正午ごろに、にわかに蛇に追われる気がして、声をあげて逃げ走った。
 蛇だ! 蛇だ! の叫びに驚いて皆が出て見ると、駄兵衛が小川の向こう岸を駆けている。それを追う蛇は見えない。ただ霧のようなものが駄兵衛の背後に続き、悪臭のすること甚だしく、風が一帯を乱れ吹いた。
 駄兵衛は追いつめられて、木に登った。木登りができない狼が相手ならよかったが、蟒蛇は樹木が棲みかのようなものだ。たちまち追って登ってきたらしく、駄兵衛はひとしきり悲鳴をあげ、枝から身を躍らせた。
 それきり、地上に降りることはなかった。空中で一呑みにされたとみえて、逆さまになった姿を最後に消失した。
 辺りは静まり返った。蟒蛇の形はないが、霧の中にいるらしく、三尺ばかりの白く光る霧の塊が、飛行するように見えた。
 これが蛇怪である。霊気をもって追うのか、蟒蛇の全身が見えることはない。どうにも敵し難いので、山刀は一時も手放すことができないのだ。

 源助は語る。
「そのほかの山中の異変、たとえば夜に来て小屋を押し動かすなども、みな古来の怪獣の仕業だ。そんなものは、何も恐ろしくない。それより春、暖かくなって独活(うど)が生え出る時、我らの楽しみは都で遊び暮らすことにまさる。米と味噌のほかに、もし一年じゅう独活があるならば、我らの生業ほどによいものは天下にあるまいと思う」と。
 異怪の山中に入って生涯を送る者にして、この言葉あり。彼らもまた、人間の一異怪ではあるまいか。
あやしい古典文学 No.1196