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長山盛晃『耳の垢』巻三十七より |
田代ヶ嶽の異人 |
今から百年ほど昔、北出羽の五反沢の農夫が、田代ヶ嶽に登って木を伐っているとき、一人の老翁に出逢った。 農夫は老翁に誘われて、とある村を訪ねた。それは、峰を伝って一里ほども歩いたかと思われる場所にあって、鬱蒼たる木立に囲まれたのどかな農村であった。炊煙の立ちのぼる家並が賑やかに続き、みな富み栄えているのは明らかだった。 老翁とともにある家に招かれて入ると、老人から幼児まで一家大勢で、さかんに家業に励んでいた。家の前の渓流に簗をかけ、獲れた新鮮な魚を焼物にし、人々が入れ替わり立ち代り饗応してくれた。 夕刻になったので、暇乞いして帰路についたが、村からずっと離れたところにきても、かの家の臼ひき歌と稲こきの音が聞こえた。 初めの峰の口まで戻って、 「あれは、いったいどこの何という村ですか。久しくこの地に住んでいますが、あのような村がある事を知りません」 と尋ねると、老翁は、 「世の人が知らない隠れ里なのだよ。さて、いつかまた逢うことにしよう」 と言って立ち去った。 翌日、農夫はかの村とおぼしき方面へ分け入ってみたが、山の様相がそもそも違っていて、探しようもなかった。 その後十余年を経て、農夫はまた老翁に出逢った。前に逢ったときから全く齢をとっていないように見えた。 前のときのことを語り合い、またもやかの村に導かれて、同じ家を訪問した。 一家みな見知った人で、当時の幼子は大人になっていたが、幼顔の面影から分かった。「これはこれは」と手を打って、家をあげてのもてなしも昔に変わらない。 この日も終日楽しく過ごして、夕刻に帰った。老翁の名と住まいを尋ねたが、告げずに去っていった。 年月を経て、農夫は死んだ。 そのとき、不思議なことに、南部鹿角の三本木というところに住む農民某から、弔い状を送ってよこした。 知り人の心当たりもないのに、どういうわけだろうと思って、後日問い合わせたところ、農夫の死んだことを、かの老翁から聞いて知ったという。 昔、三本木の家の当主が奇病にかかったとき、老翁が来て一種の薬草を服用させると、たちまち平癒した。以来、老翁が来るたびに大いにもてなすようになった。 農夫が老翁に連れて行かれたのも、その三本木の家だったのである。 |
あやしい古典文学 No.1200 |
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