新井白蛾『牛馬問』巻之四「烏賊の墨」より

イカスミ

 ある人が語った。
 船に乗って海辺を通ったとき、船頭が、「珍しいことが起きますぞ。みな見物なさいませ」と言って舟をとどめた。
 船頭が指差す所を見ると、大きな蛇が岸から身を乗り出しながら、水中を窺っていた。水中では大きな烏賊(イカ)が岸に向いて、蛇を獲ろうとの勢いで迫った。
 両者の間合いがよほど詰まったとき、烏賊は波を吸い、墨を吐いて、蛇に注ぎかけた。すると蛇は、たちまちズタズタに千切れて海中に落ちた。
 見る者みな奇異の思いに打たれた、と。

 別の人が語った。
 烏賊を料理しようとする者があった。あいにく不慣れで、最初に烏賊を洗わなければいけないのを知らずに包丁を用いたため、腹中の袋が破れ、墨が溢れ出た。
 烏賊に触れるたびに手が真っ黒に染まるので、ほとほと困り果てているとき、その人の子が来て、「蝮に噛まれた」と泣き叫んだ。
 大いに慌てて、烏賊を放り捨てて走り寄り、手が黒いのもかまわずに「ここか、ここか」と、あちこち撫でさすった。
 そうするうち、子の体も真っ黒に染まり、噛まれたところも見分けられなくなったが、痛みはほどなく癒えて泣きやみ、普段と変わらず遊び始めた。
 それを見て皆は、「烏賊の墨が、蝮の毒を消したのか」と首を傾げた、と。

 この二人の話から考えて、烏賊の墨が諸々の蛇の毒を解くのは間違いない。
 『本草』に、「烏賊骨、蝎螫疼痛を治む」とある。しかし、墨の効能は載せていない。後の世の人のために、ここに記しておく。
あやしい古典文学 No.1203