林羅山『狐媚鈔』「衆愛」より

媚薬

 中国の唐の時代、劉全白という人の乳母の子で、衆愛という男がいた。
 衆愛は若いころ、夜中に網を仕掛けて、猪・狐・狸の類を獲った。
 岐下というところにある劉全白の山荘の西側に網を張ったとき、暗闇の中で蠢くものの音がした。そちらを凝視していると、地面に伏せて網を窺っていた何ものかが、すっと起き上がって、裾の赤い衣を着た女と化した。
 女は網の横をすり抜けて、衆愛の前方にあった車の傍まで来て、そこで鼠を捕らえて食った。
 衆愛が声を上げて叱ると、女は慌てふためき、逃げようとして網にかかった。それを棒で殴り倒したが、昏倒しても人の形は変わらなかった。
 衆愛は『もしや、まことの人かもしれない』と心配になって、ともかく網にかかったまま池に投げ込んで、家へ帰った。
 家では父母が、話を聞いて驚き恐れ、相談のうえ、一家そろって逃げようと言いだした。
 しかし、しだいに冷静になった衆愛は、それを押しとどめた。
「人間の女が、生きた鼠を掴み食うなんてことがあるだろうか。あれは、きっと狐にちがいない」

 夜が明けて、また池へ行ってみると、女はまだ死んでいなかった。大きな斧をふるって、その腰の下あたりに斬りつけると、たちまち狐の姿に変じた。
 衆愛がほっとして家へ帰ろうとするところに、村の老僧が来て教えた。
「狐はまだ生きているから、これを養うがよい。狐の口中には『媚珠』というものがある。それを得れば、天下の人に愛され、敬われること間違いない」
 そこで、狐の四足を縄で縛り、大籠を上からかぶせて、数日間養った。狐は、よくものを食った。
 かの僧は、細口の小瓶を、瓶の口が地面ちょうどになるように埋め、炙った猪の肉を二切れ、瓶の中に入れた。
 狐は猪肉の炙り物が大好物なので、取って食べようとするが、瓶に口吻をつけても届かす、涎を垂らすだけだ。
 肉が冷たくなるとまた新しい炙り物を入れた。それを繰り返すうちに、狐がむなしく垂れた涎と泡で、瓶がいっぱいになった。
 しまいに、狐は珠を吐いて死んだ。その珠は碁石のように円くて、清らかだった。
 衆愛は、常にその珠を帯びて、大いに人に崇敬された。

 狐は人を惑わすものだ。それゆえ、人の心をとらえ、操ろうとする者は、狐の媚薬を用いる。
 口の小さな器に肉を入れ、狐が常に往来するところに置く。狐は肉を食おうとするが、口吻が入らず、爪で掻き出すこともできない。周囲を頻りに行き来して匂いを嗅ぐばかりだ。そのうち、狐の口から垂れた涎が器に溜まる。それを取って調合し、媚薬を作るのだ。
 その薬を持つ者は、人の気を引き、愛されるという。また、狐が口から珠を吐き出すことがある。これまた、よい媚薬となる。
 なお、尾が九本あって金色の狐は、天に通じる霊獣である。「天狐」と呼ばれ、通力があるので、殺してはならない。
あやしい古典文学 No.1204