長山盛晃『耳の垢』巻三十九より

怪水

 享保のころ、八郎潟に面する秋田郡上虻川村で起こったことだ。

 ふだんは静かに水をたたえている百姓家の井戸が、ある日にわかに雷鳴のごとき音を発しはじめた。
 不思議に思って恐る恐る中を覗くと、井戸の水が大いに湧き上がっていて、すでに井戸の縁を越そうとしている。「何事が起こったのか」と、たいへんな騒ぎになった。
 と、そのとき、八郎潟の水も突如湧き上がって、岸辺へ打ち上がり、そこから幅一間余りで先が細く尖った一筋の水流となって、まっしぐらにかの百姓家のほうへ押し寄せた。それはあたかも竜蛇のごとき勢いだった。
 潟からの水が百姓家の垣根に近づくと、井戸の水も縁から溢れ出て、こちらも負けぬ勢いでまっしぐらに進み出て、潟の水に立ち向かう。
 まるで意志のあるもののように双方ぶつかりあい、激しく戦った。立ち上がる波は一丈あまり、しばらく戦いが続いたが、潟の水のほうが負けて一間ほど後退し、これをしおにどちらも水勢を引いた。
 井戸の水は一滴残らず井戸へ戻った。潟の水も潟に納まった。その後、潟のほうがゴロゴロと鳴った。最初に井戸が鳴ったのと同じ音だったので、また怪事があるのかと恐れたが、それ以上何事も起こらなかった。
 夕方四時ごろの出来事で、日が暮れたときには井戸の様子は元どおり。水を汲み上げて子細に見ても、ほかの水と変わらなかった。
 しかし、この事件があってから、ここの水を使う人がだれもいなくなり、井戸は自然に潰れたそうだ。
あやしい古典文学 No.1215