『南路志』巻三十六より

楠島の大蝮

 土佐国安喜郡の甲浦湊口に、楠島という島がある。今はそこに、海路を照らす灯明堂がある。
 島には巨大な蝮が棲んでいて、夏の夜は灯明の油を呑み、灯明堂を巻いて締めつける。灯明番が「こらぁ」と叱ると、身を解いて帰るそうだ。

 この蝮について、一つの物語がある。
 長宗我部元親の時代、甲浦のあたりに淡路屋という金持ちの商人がいて、あるとき大阪へ舟で上っての帰り、遊女を一人連れてきた。
 淡路屋は、甲浦へ入港するとき、その遊女に、
「わが妻は嫉妬深い女なので、おまえを前触れもなく家へ伴うことはなしがたい。しばらくこの楠島で待っていてくれ。妻を納得させた上で、迎えをよこそう。もしどうしても納得しなかったら、人に頼んで誰かに嫁げるようはからうから、安心して待て」
と言って楠島に降ろし、自分だけ家へ帰った。
 しかし妻は、話を聞いて激しく怒り、夫を屋内に監禁して、下人一人たりとも楠島へ行くことを許さなかった。
 遊女は、今か今かと音信を待ったが、誰一人来る者がない。港へ出入りする漁船を扇で招いても、みな龍女が現れたかと疑うのか、近づこうとしない。苦しみ嘆いても、どうにもならなかった。
 四五日の間は、磯の藻屑や貝などを食べて命を繋いだ。それでも全く誰も来ないから、ついに島内の池に身を投げて死んだ。そのさまをたまたま遠目に漁師たちが見ていたので、話はたちまち広がって淡路屋方へも聞こえ、妻は安堵して夫や家人を自由にした。
 楠島へ人をやって確かめさせたところ、遊女の着ていた衣装や帯、扇などは見つかったが、死骸は池の中になかった。それで、かの遊女の亡霊が蝮になったという言い伝えができた。
 じっさい、淡路屋の子孫がこの島に近づくと大荒れになり、夥しい数の蝮が出て怪事があった。
 享保年間、明神という人が淡路屋へ招かれ、酒宴の後で興に乗って、
「楠島の花が盛りのようだ。磯遊びに行きませんか」
と言ったが、淡路屋の者は口を揃えて、
「あの島へは行けないのです」
と断った。それでも無理に誘って出かけたが、島に近づくやたちまち、言いようもなく凄まじい波風が巻き起こって、船中の人は大いに驚いた。慌てて島から離れると、また平常のごとく海が静まったのである。
 その後、毎年この島の近辺で漁船が破損し、死人が多数出ることを嘆き、かの遊女の亡霊を神として祀った。すると、神になって力を得たゆえか、淡路屋一家は疫病に冒され、ことごとく死んで、子孫は絶えてしまった。

 今は、楠島の池も水が減って、蝮は上の洞穴に棲むらしい。
 洞穴の辺り四五間ほどは草が倒れ伏し、白い油に濡れたかのようになっている。蝮が常に出入りするからだという。
あやしい古典文学 No.1220