古賀侗庵『今斉諧』巻之五「猫 十」より

猫魔嶽

 会津磐梯山の猫魔嶽には、一匹の巨大な猫が棲み、しばしば深刻な害をなす。

 穴沢善右衛門という会津の侍が、ある日、猫魔嶽の麓の谷川で釣りをした。釣り上げた沢山の魚を傍らに置いていたが、ふと見ると、その大半を猫に食われていた。
 善右衛門が怒って帰宅すると、家では、山中の温泉へ湯浴みに行った妻が猫に攫われたと大騒ぎだった。
 これは魚を食われたどころの事態ではない。善右衛門は憤激して、必ず猫を捕らえてみせようと、山中をくまなく捜索した。
 やがて、高い樹上に掛けられた妻の屍体を見つけた。その下には、一人の老人が蹲っていた。
 善右衛門が、
「おまえは山谷に生まれ育ち、高みに登るのが得意なはず。わしのために樹に登って、あの屍を取ってこい」
と命ずると、老人は応えた。
「承知しました。お腰の刀を拝借できるなら、すぐに取ってきて差し上げましょう」
 善右衛門は罵った。
「何を言う、馬鹿者め。これは武士が常に身に備えるものだ。たとえ死んでも手放すものか」
 その瞬間、老人は樹上に駆け登った。
「くそっ、だまして刀を奪い、貴様も殺すつもりだったのに、失敗した。残念なり」
 吐き捨てるように言うと、屍を抱えて姿をくらました。
 善右衛門は、もはや為すすべがなく、諦めて帰るしかなかった。

 猫はその後も暴れて、大寺村に至った。村人は十頭の犬をけしかけたが、捕らえることができなかった。
あやしい古典文学 No.1231