高力種信『猿猴庵日記』より

家に帰れない

 安永六年五月のこと。
 ある家で養われていた老人が、ふと行方不明になった。名古屋じゅうはもとより、近郷へも人を遣って捜したが、いっこうに所在が知れなかった。

 その家の近くの住人で、商いで村々を回っている者がいて、あるとき大浜茶屋というところで休憩し、失踪した老人の話をした。
 すると茶屋の亭主が言うことには、
「このあいだ二日ほど、何処の人か分からない年寄りが、酒を呑みにやって来た。もしやあの人ではあるまいか」
 商人は、
「今度来たら、引き留めておいてください」
とくれぐれも頼み、かの家へその次第を知らせた。
 そこで、家の者も茶屋へ足を運んで尋ねたが、
「先に二日ほど来たきりで、その後はいっこうに……」
と言うので、近辺をよく捜したけれども、やはり見つからなかった。

 いっぽう商人は、街道でかの老人とばったり出くわした。皆が心配して捜していることを語ると、老人は、
「いや、わしも帰りたいと思うのだが、どうやっても帰れない。方角も分からないから、どうか連れて帰ってくれよ」
と頼み顔で言った。
 連れて帰るといっても、罪人のように縄を付けるわけにいかず、手をつないで行くのも変なので、後になり先になりしながら、油断なく気をつけて行った。
 ところが、熱田神宮の入り口の八丁畷まで来たところで、なぜか姿を見失った。驚いて、道を行きつ戻りつして捜したが、もうどこにもいなかった。
 商人からこのいきさつを聞いて、かの家もまた人を出して、姿の消えた辺りを捜して回った。しかし手がかり一つなかった。

 その後、見つかったという話も聞かない。
あやしい古典文学 No.1234