津村淙庵『譚海』巻之五より

かの人の死去

 享保年間のこと。

 薩摩藩家老の猿渡某が江戸へ出府して、老中松平左近将監宅を訪れ、『ひそかに申し上げるべき用事にて…』と告げて対面した。
 その席で猿渡は、黒塗りの箱の封印したのを差し出した。
「薩摩守より申し上げます。当国にて昨年、かの人が死去なされました。それにつき、当藩がこのようなものを所持しておりましても、かえって徳川家の御恥辱にもなりかねないと、恐れながら案じられまして、ひそかに返上いたしたく、持参いたしました」
 左近将監は、その箱を受け取って即刻登城し、将軍徳川吉宗に事の次第を言上した。
 吉宗が箱の封を開けてみると、中身は徳川家康より豊臣家へ遣わされた起請文で、『秀頼が十五歳になったら、政務を豊臣に返す』との文言が記されてあった。
 吉宗は、それについては何も語らず、ただ、
「かの人は何歳で死去したのか、子孫はあるのか、詳しく尋ねてくるように」
と言った。
 帰宅した左近将監が、猿渡を呼んで問うたところ、
「かの人は昨年、百三十七歳にして死去。百二十一歳のとき男子をもうけ、今も存命です。それ以前にも男子一人がありましたが、すでに死去しており、存命の男子は一人のみであります。ほかに女子が三人あって、いずれも家老どもへ縁組いたしました」
とのこと。
 その報告を聞いて、吉宗は命じた。
「来春、薩摩守の参勤のおり、その男子を同道させよ」

 猿渡は帰国した。
 翌年、薩摩守が男子を同道して参勤してくると、吉宗はさりげない謁見ののち、その男へ知行五百石を賜り、赤坂山王の神主とした。「樹下民部」という名を与えて、その名は今も子孫が相続している。
 察するに、大阪落城のとき、豊臣秀頼は薩摩へ逃れたのか。それにしても、百三十七歳まで存命とは、珍しいことだ。
 「樹下」は、すなわち「木下」の意なのだそうだ。
あやしい古典文学 No.1248