林羅山『幽霊之事』「芍使君」より

旅の宿

 唐の玄宗帝の開元年間、黎陽(れいよう)というところを行く旅人があった。
 日が暮れたので宿をとろうと思い、道の傍らを見ると、一軒の大きな家がある。旅人はその門を叩いたが、しばらく何の返答もなかった。それでも待っていたら、
「どなたですか」
と問う声があった。
「日が暮れ、道なお遠くて、困っております。こちらに一宿させてくださいませんか」
 旅人が頼むと、
「主人に話してみましょう」
と言って、中に入れてくれた。

 しばらくして、衣冠をつけた高貴な身分と思われる男が、履(くつ)を音高く鳴らしながら歩み来て、旅人を迎え、
「旅中の苦労、お察しいたします。このように壊れ傾いた陋屋で、宿をお貸しするのも恥ずかしい思いですが…」
と言いながら、客殿へ導いた。
 旅人は、『この人は何者だろうか』とあやしみながら中に入って、しばし歓談した。
 主人は、昔の斉の時代や周の時代のことを、自分の目で見たことのように語った。旅人が名を問うと、
「私は、潁川(えいせん)の芍使君(しゃくしくん)という者です。先祖の代からずっと、この地に居住しております」
と答えた。
 やがて酒肴が出た。旅人が口にしたところ、新鮮だとは感じたが、はなはだ味気なくて、旨くなかった。
 そのあと主人は、寝間に床の用意をさせて、旅人を休息させた。また、その部屋に女を一人つかわして、ともに寝させた。

 旅人は女に尋ねた。
「ここの主人は、どれほどの官位なのかね」
「河公主薄(かこうしゅはく)という官です。でも、このことは決して人に語ってはなりません」
 そのとき、壁を隔てて、にわかに騒動が起こったらしく、恐怖の叫び声と苦痛の呻きが聞こえてきた。
 旅人が窓の隙間から覗くと、先ほどの主人が床几に寄りかかり、周囲には多数の蝋燭が灯し並べられていた。
 主人の前には、髪を乱した罪人らしき者が、裸で引き据えられていた。
 左右にひかえる者が種々の鳥を呼び、罪人の眼をつつかせた。眼から血が流れた。血は地上までこぼれ落ちた。
 主人はひどく怒った声で、
「おのれは、なにゆえに我に妨げをなすのか」
と問い詰めていた。
 旅人はまた、女に尋ねた。
「いったい何をした罪人なのだろう」
「あれは、黎陽の奉行ですよ。いつも遊び歩いて、この家の垣根を破ったりなど乱暴をはたらくので、叱責を受けているのです」

 夜が明けた。
 旅人は、大きな墓所の内に臥していた。これはどうしたことだと驚いて、通りかかった人に問うと、
「そこは、芍使君という人の墓だ」
と教えてくれた。
 旅人はそのまま黎陽の奉行のもとを訪ね、対面を乞うた。
「眼を病んでいて、会うことができない」
との返事を聞いて、『昨夜、鳥につつかれたからにちがいない』と思い、
「その病を、私が癒して差し上げよう」
と言うと、奉行は喜んで呼び入れた。
「さっそくだが、どのように療治してくれるのかね」
 旅人は、昨夜のことをありのままに語った。
 奉行は下役たちを呼び集め、晴れた夜、たきぎ数万束を芍使君の墓の傍らに積み上げた。奉行自ら兵を率い、たきぎに火を放って、墓を焼き尽くした。
 これにより、眼病がたちまち本復したので、奉行は旅人に多額の褒美を与えた。

 後に旅人が先の墓所に赴くと、灰燼の中から、頭も顔も焼け焦げ、爛れて、身には襤褸をまとった者が這い出してきた。
 その者は、しばし茨の中に蹲っていたが、やがて旅人の前に進み出た。
「君は先ごろ、わが家に一宿したことを、覚えているか」
 旅人はギョッとして、とりあえず問い返した。
「なんでまた、そんな姿になったのですか」
「黎陽の奉行に攻められて、このざまだ。まあしかし、必ずしも君のせいだとは思わない。我が運命の極まったゆえであろう」
 旅人は、憐れみを覚えるとともに、自分の所業を少なからず恥じて、酒をふるまい、衣を与えた。
 その者は喜んで、衣を受け取って去り失せた。

 これは『広異記』という書に記された話である。
あやしい古典文学 No.1254