菅江真澄『筆のまにまに』より

姫が嶽

 羽州秋田郡阿仁の金倉川の向こうに、姫が嶽という岩山がある。

 昔、とがり矢をたばさみ、手下を一人連れて、その山麓を行く猟師があった。
 獲物がいっこうにないので、高い岩に登り、鹿や熊を求めて四方を見回すと、白い大犬が太刀を咥えて、木々の茂る中を飛ぶように行く姿があった。
 猟師は木陰に身を隠しながら、弓を引き絞り、矢を放った。矢はみごと命中して、犬は地面をのたうち回った。
 猟師は犬の落とした太刀を抜き、犬を刺し殺した。
「おお、なんと見事な切れ味。これを手に入れたのは、まことに今日の幸いというものだ。よし、さらに進もう。手下よ、続け」
 二人は、道なき険しい山中に踏み込んだ。

 やっとのことで少し高みに登ってしばし立ち止まり、何かめぼしいものはないかと辺りを見回したところ、谷に面したところに岩窟があり、窟の内から煙が細く漂い出ている。
 怪しんで窟に近づき、覗き見れば、一人の美姫が柴を焚いていて、突然人の来たのに驚いて声を上げた。
「あなたたちは、いかにしてこの奥山に分け入ったのですか」
 猟師が、
「我らは、麓で鹿・熊を狩っていたが、太刀を咥えた犬がこの峰を目指して馳せるのを見て、その犬を一矢で射倒し、落とした太刀で打ち殺した。そのうえで、犬がこの峰に向かったのは何のわけがあったのかと思い、ここまで登ってきたのだ」
と答えると、姫はにっこりほほ笑んだ。
「それは本当ですか。わたしは、その犬に捕らわれ、妾にされて三年を過ごしました。ああ、なんと嬉しいこと。あれを殺したというのがまことなら、あなたの妻となって、いっしょに参りましょう。とはいえ、女は疑り深いもの。犬を討った太刀ならば、血濡れ、刃こぼれがあるはずですから、見せてください」
 猟師は何も疑わず、太刀を抜いて手渡した。姫はそれをかざし見つつ、涙をはらはらとこぼし、
「なにを隠そう、その犬こそ、三年のあいだ愛し連れ添ったわが夫。仇を報いずにおくものか。思い知れ」
と叫ぶや、無警戒に腰を下ろしていた猟師の喉を、太刀で刺し貫いた。

 手下の男は、驚きで腰を抜かしそうになりながら、かろうじて麓まで逃げ下り、人々にこのことを語った。
 聞いた人々は、口々に言った。
「よし、そこへ行ってみよう。姫も連れ帰ろうではないか」
 手下の男を先に立て、険しい山腹をよじ登り、かの岩窟に入ったが、女の姿も太刀もなく、きのう焚いた柴の火も消えていた。夜のうちに姫は窟を去ったとおぼしく、もはや行方は知れなかった。
 それ以来、この山を「姫が嶽」と呼ぶようになったのである。

 この話は、北山で道に迷った男が、犬を夫とする女のもとに一夜泊まったという『著聞集』の物語に似ている。
 中国には「犬子国」といって、犬を祖先とする国の物語がある。また『蒙求(もうぎゅう)』中の歌などに、犬と交わることを詠んだものがある。
 蝦夷のコタンの中には、先祖は犬を夫としたという村があり、その昔話もある。
 すべて、この「姫が嶽」の物語と同じだといえる。
あやしい古典文学 No.1255