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上野忠親『雪窓夜話抄』巻之七「高原氏の話」より |
旅の心得 |
高原市兵衛は、鳥取藩池田家の草創に、親子二代で重臣として忠勤した人物である。 八十有余歳まで長寿の人で、隠居のときの名は市入といった。なんやかやと古い時代のことを筆者に語ってくれたが、今はおおかた失念した。武芸の鍛錬も怠らず、筆者に相伝されたことも多かったが、長い年月が経って、それも失念してしまった。 なんとか覚えている話の一つに、次のような旅の心得のことがある。 「旅行のときには、朝早く出て、夕方は早く着くのがよい。そうすれば、徒歩の者もゆっくり休息できて、翌日に疲れが残らない。 日暮れ前に宿に着いたら、家の中を見て歩いて勝手を知り、盗人の用心を心がけるとよい。大便所・小便所の場所を尋ねて確かめておくこと。夜中に火が消えてもうろたえないためだ。 人はみな盗人だと心得て、たとえ家来でも油断してはならない。大小の刀と金銭を入れたものを枕として寝るのがよい。火事は起こるものと心得て、何国においても油断は禁物。器材・衣服など、一つとして取り散らしてはならない。」 寛永二年の冬、筆者は、新蔵様のお供で江戸へ赴く旅の途中、関宿に泊まった。 翌朝はたいそう早い御出立とのことで、夜中の二時に起き出して準備した。目は開いても醒めてはいない状態でいるとき、台所の方から、わが家来と宿の下女とが大声で喧嘩する声が聞こえてきた。 『下女相手だから、さしたることではあるまい。知らぬ顔をしておこう』と、聞き流すようにしていたが、家来の立腹ぶりは、あまりに甚だしい。不審に思って耳をすまして聞くに、座敷の縁先に、小便桶が柄杓を添えて置いてあったらしいのだ。 家来の久左衛門は、ふと起きて縁先へ出て、それを手水桶と思い込み、柄杓で小便を汲んで顔を洗った。さらに口に含んでうがいをするに及び、小便だと気づいた。 「こんな汚物を手水桶と並べて置くから、取り違えたではないか」 と怒鳴る久左衛門に対し、下女は、 「ここよりほかに置きようがありませんよ。夕方、これをご覧にならなかったはずはありません。それに、近づけば臭いで分かるでしょうに」 と言って笑うのだった。 筆者はこのとき、かつて高原市兵衛が教えたことを思い出し、『古老の一言は千金のごとし。勝手知らぬ一夜泊まりの旅宿では、家来のみならず主人もどんな目に遭うかわからぬ』と、しかと思い当ったのだった。 若い者の心得のため、このことを書き記すものである。 |
あやしい古典文学 No.1263 |
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