上野忠親『雪窓夜話抄』巻之七「火葬人の話」より

火葬人の話

 筆者が京都にいたときに召し使った下男に、半介という者がいた。
 半介は若年の者に似合わぬ熱心な仏の信者で、毎年寒の三十日の間は、夜ごと鉦を首にかけ、「五三昧」と呼ばれる五カ所の火葬場を巡って回向し、暁時分に帰ってくるのだった。
 その五カ所とは、一に阿弥陀が峯、二に船岡山、三に最勝河原、四に延年寺、五に西寺である。
 田舎では「五三昧」といっても分からない人が多いだろうが、京都では、死んだ人があれば宗派を問わず、五カ所の火葬場のうちの最寄りのところへ運んで火葬にする。
 どの火葬場にも「御坊(おんぼう)」という者がいる。死人が運び込まれると、御坊はそれを受け取って火屋で焼く。施主は御坊に任せて火葬場から帰る。
 翌日また、施主をはじめ亡者の親類・縁者が来て、焼骨を拾って壺に入れて持ち帰る。これを「灰寄」という。焼骨は、どこであれ墓を築こうと思う場所に埋める。
 昔は僧侶が、役目として火葬場に出向き、死人を受け取って焼いたものだそうだ。人々は、その僧を尊称して「御坊」と呼んだのである。
 似つかわしくない呼び名だが、昔から言い習わしで、死体を焼くのを渡世とする者を「御坊」という。もちろん今では尊称ではない。それどころか全く賤しい者とされ、百姓町人までも、嫌がって交わりを持たないのである。

 元禄十三年正月のことだ。
 筆者宅に半介が来たので、
「去年の暮れも、例のごとく寒念仏に出たのであろう。人遠い五三昧を夜中に回るのだから、何か怪しいことを見るのではないか」
と問うと、半介は、
「幽霊に出遭ったという話は、昔から沢山聞きますが、私は長年、暗い夜中に往来しながら、一度も怪しいものに遭ったことがありません。ですから、世の中に不思議なことなど本当にあるのかと疑っているのです。しかし、それらしいものを一つあげるとすれば、去年の寒念仏のとき、最勝河原でのことがあります」
と言って、自らの体験を語った。

 ある夜半、最勝河原の辺りに来て遠目に見ると、その夜も死人があったのか、火の光が物凄い。世の無常がしみじみと思われて、止み間なく念仏を唱え鉦を打ちつつ火葬場に近づいた。
 しばらく佇んで念仏していると、火が回ってきた頃になって、臥していた死体がぐらりと寝返りをうち、起き上がろうとするではないか。
 なにしろ寒い冬の真夜中、通りかかる人とてない広い野原にただ一人、亡者と差し向かいでの出来事だから、恐ろしさに身の毛がよだち、無常を観じた心など消し飛んだ。
 もう念仏どころでなく、その場を走り去って御坊の家に逃げ込んだ。御坊が、
「ここの火は穢れておりまして…」
と拒むところを無理に煙草の火を乞うて、今見たことを語って、
「亡者が蘇生したのかもしれない。一刻も早く、一緒に火葬場まで行ってみよう」
と促したが、御坊は少しも驚かずに応えた。
「あの亡者は壮年の人だから、そういうこともありましょうな。老人の亡者だと、めったに起こりませんが…。死人が火の回るときに寝返りしたからといって、本当に生き返ったのとはちがいます。疑うなら、今から行って見るとよろしい。生気がついたりなど、全くしておりませんから。
 死人によっては、むっくりと起き上がって、火の中で立ち上がり、両足を踏んまえて左右を見回してから、またべったりと倒れたりもします。火葬場の外へ走り出て倒れることさえありますが、抱き起してみると全身冷たく、少しの気息もないので、またもとの場所へ運んで火をかけるに、少しの身動きもなく焼けるのです。人に語ってもなかなか納得してもらえないが、実際にあることです。
 もっとも、千人万人の中には、本当に蘇生して火中から逃れ出る亡者もおると、昔からの言い伝えで聞き知っております。わし自身はこの齢になるまで、幾千幾万という火葬を手がけたといえども、そんな亡者に出くわしたことはありませんが、同業で船岡山の御坊を務めている者が、十年ほど前に一人おったということを話しておりました。数多い中には、そんな死人がいないとも言えないでしょう。
 さて、その蘇生者ですが、そのままにしておくと御坊の家に祟るというので、走り出ると追いかけて叩き倒し、火葬場に連れ戻すということが、昔から定まった御坊の作法なのです。火葬場の内には、長さ三尺ばかりで剣のような形の、焼き竹を削って尖らせたものが置いてあります。さして人目につかないようなものですが、いざというときには、その竹で蘇生者を突き殺すのです」と。

 こうした御坊の作法のことは、玄光の『護法集』の中でも評されている。半介の話は偽りではあるまい。
あやしい古典文学 No.1264