神墨梅雪『尾張霊異記』二篇上巻より

怪物に噛まれて

 文政九年六月二十六日夜、名古屋の町中でのことだ。

 杉ノ町筋四丁目の嶋屋仁兵衛が、蒸し暑さが堪えがたくて、戸を開け放って寝ていたところ、夜も更けたころ、足の親指をくわえて、引っ張るものがあった。
 驚いて目を覚まし、起き上がって見ると、なんだか知れない黒くて丸いもので、大きさは鼠より少し大きいくらい。夜分のことで、はっきりした形は分からない。
 驚き恐れた仁兵衛が裏のほうへ逃げると、怪物は追ってきて、また喰いついた。いよいよ驚き、表のほうへ逃げたが、またもや追いつかれて噛まれ、たまらず裏へ引き返した。
 そうするうち、騒動に気づいた下男が「人殺し〜!」と叫びながら表に飛び出し、その声に応じて近隣の者たちが、棒を手にして駆けつけた。
 逃げ回る仁兵衛は、またまた表に走り出て、棒を構えた人々が居並んでいるのに仰天し、その場で腰を抜かした。
 怪物も人々の棒にたじろいだと見えて、いずこかへ逃げ失せた。

 翌日、医師長坂周二が診察したが、噛まれたところは丸い跡が残って、獣の歯形には見えなかった。
 その後の仁兵衛は、腰が抜けて転倒したときの傷がひどく痛んで、難儀しているらしい。なんにせよ珍しい出来事だ。

 世間では、「狸のたぐいか、管狐(くだぎつね)などではないか。あるいは、今年は近年まれな雷の当たり年で、あちこちに多数落雷しているから、雷獣かもしれない」などと言っている。
 また、「仁兵衛は逃げ出す前、いったんは怪物を捕らえようと蚊帳のまわりを追い回し、取り押さえたけれども、体がぬるぬるで脱け出してしまったらしい。それから考えると、河童のたぐいかもしれない」といった説もあって、どれとは決め難い。
 ある人が言うには、「仁兵衛は以前の妾に、理不尽なやりかたで暇を出した。その女が管狐を使う者で、狐の力を借りて報復したのだろう」と。さらには、「近場の鳥屋が栗鼠(りす)を逃がしたらしい。その栗鼠にちがいない」などとも。
あやしい古典文学 No.1273