上野忠親『雪窓夜話抄』巻之六「野村源五郎幻術を廃止せし事」より

幻術者

 筆者の知人に、野村源五右衛門という人がいる。その養父も同じ源五右衛門という名で、備前岡山の池田家中から因幡の池田家に来た人だという。

 養父のほうの野村源五右衛門は、誰かから幻術を伝授されたらしく、種々の不思議をなして人に見せた。当時そうした場に同席して、幻術をじかに見物したという人も多い。
 楯町に宝門院という山伏がいて、野村源五右衛門と親しかった。源五右衛門が「不思議なことをして見せようか」というとき、「ぜひ」と所望すると、いろいろなことをしてみせたそうだ。
 たとえば夜中に、頭巾でも手拭でも、そのあたりにあった物を高いところの釘に掛けておく。いったん燭火を消して、また点じてから掛けたところへ見に行くと、牛馬の頭骨やら男女の首やら、種々のものに変じていた。
 あるときは、天井に飛び上がり、「これを見よ」と言いつつ背を天井につけて手足を左右に広げてみせた。またあるときは、敷き詰めてある畳の下に入り、五畳も六畳も潜り抜けて、ずっと向うの畳の間から這い出た。
 六尺の屏風の上を歩いて渡り、行燈の上で踊り狂ってみせたこともあった。そのとき屏風は微動だにせず、行燈が僅かでも揺れることはなかった。
 自宅にいながら、他国の人の起居動静を知った。急に求めても得られないはずのものを、体はその場にありながら、他人の手を借りず席上に取り寄せた。
 遠方へ行って途中で暴雨にあっても、衣類が少しも濡れなかった。知らぬ山道で迷ったときには、狐などが現れて先に立ち、それについて行くと本道に出た。遠方へ行く途中で日が暮れたとき、遠くに火を見せて、その火を目指して行けば道に迷わなかった。

 源五右衛門の親戚筋の国府内蔵允も、所望して不思議を見たとのことで、源五右衛門が幻術を為して人々に見せるというのは、疑いもない事実であった。
 池田日向は源五右衛門の遠縁にあたる人で、評判が高まるのを由々しいことに思ったらしい。あるとき、遠近の親類衆を自邸に招いた。
 その席に列した内蔵允が語ったところによれば、日向は、あれこれと世間話の後に、源五右衛門に言ったそうだ。
「そのほう、世間の噂では、幻術の妙を会得したそうだな。今夜、親類一同を招いたのは、そのほうの為す不思議を見んがためである。何でもいいから、ひとつ幻術を見せてくれ」
 なにしろ人が常には用いない邪法で、歴々の侍にふさわしからぬものだから、源五右衛門の表情には深く恥じ入った心が現れた。
「幻術など、まったく心当たりがありません。きっと人違いでございましょう」
「それはどうかな。確かな証拠がなければ、こんなことを拙者も言うはずがない。そこにいる内蔵允をはじめ、この日向に幻術を見たと話した面々は数多いぞ。それを知らぬ存ぜぬとごまかすのは如何なものか。忍びの術は、幻術を専一とするそうだ。けっして卑下して辞退することはない」
 このように理を尽くして言われて、なお否定したのでは一座の興も台無しになろうと思ったか、やむなく源五右衛門は、ありのままを話した。
「なるほど、お聞き及びのごとく、そうした術を少しばかり習得いたしましたが、賤しい大道芸人の業と同様のものです。ごく親しい朋輩に、場の余興として見せたこともあったとはいえ、改まった場所で披露するべきことではありませんので、いちおうご辞退申し上げました。しかし、重ねてのご所望に応じないのは、かえって失礼というもの。この上は何事であれ、お望みのことを為してお目にかけましょう」
「おお、それでこそ面白い。では、某々にして見せたことを、今ここでやってくれないか。ぜひ見たいものだ」
 源五右衛門は承知して、少し席を外し、物陰で何か呪文を唱えた。
 しかし時が移っても、いっこうに変わったことが起こらなかった。『この機会にとにかく一つの不思議を見せて、一座を驚嘆させよう』と、額に汗を流し、身を悶えて印を結び、一心不乱に秘密の呪文を唱えても、少しの不思議も生じないのだった。
「今夜はどういうわけか、まるで法力がはたらきません」
 源五右衛門はあまりの験のなさに落胆しきって、座敷に出てきた。日向はそれを側近くに召し寄せた。
「そのほうが幻術の妙を身につけたということは、世間で知らぬ者はない。しかし、拙者は最初から、凡俗の耳目を驚かすだけの偽法ではないかと疑った。はたして思ったとおりであったよ。見せる相手によって術が成功したり不成功だったりするのは、幻術が邪法であることの証拠だ。そのように怪しげなことで名を知られて、今夜のように何の不思議も人に見せられなければ、面目丸つぶれというものではないか。
 自分の家で慰みごとにするだけなら、いっこうに差し支えない。だが、これほど世間に知られては、どんな人が所望するかもしれず、そのときに今夜のごときぶざまな始末では、興ざめも甚だしく、武芸でもない下らぬ業で汚名をこうむることになる。それは、そのほう一人の汚名ではすまず、一族の者みなの汚名となることだから、今後は幻術をいっさい用いてはならない。今、拙者の面前で誓言を書け。さもなくば、親類一統が申し合わせて、そのほうと義絶するであろう」
 このように筋道正しく意見されて、源五右衛門もそのとおりだと思ったのであろう、懇情を感謝して、二度と幻術を用いないことを誓った。そして、ただちに家へ帰って、幻術の伝書を焼き捨てたので、当代の源五右衛門には、幻術の法は伝わらなかった。
 それ以前は、毎月の八日、十四日、十五日、二十三日、二十九日、三十日の六斎日には、精進潔斎して特別の修行をおこなった。別室に引きこもり、家内の者にも見せなかったから、どんな本尊を立て、どんな儀式作法を為すのか、誰にもわからない。六斎日以外は、魚鳥などの肉も食して、普通の人と変わるところはなかった。
 その修行は、血気盛んな年代なら特に苦労とは思われないが、年老いてからは、容易に勤めがたいものらしい。だが、修行に緩みや怠りがあると、その神の咎めをこうむる。だから、一度は思うがままに術を用いて欲望を満たしていたのに、老年になってはどんな行者も貧しく落ちぶれ果て、その身一代限りで断絶してしまう。
 このことから考えても、かの幻術が邪法であるのは間違いない。大道芸人の業とはまったく別のもので、「飯綱(いづな)の法」というものであるらしいが、源五右衛門の例で見ると、一つの法術でありながら、見る人によって術が成功したり失敗したりするものだと分かる。
 国府内蔵允は、以上のように語った。

 当時は、飯綱の法が流行ったのだろうか。
 岩越次郎左衛門の話によれば、豆腐町の善祥院の弟子に、多宝院という飯綱の法を会得した者がいて、あらゆる所願を祈って、一つとして成就しないことがなかった。
 そうして多宝院は、修験者として世に二人とない栄華栄耀を極めたが、老年になると験力が失われ、祈祷を頼む者もいなくなった。寒さにあっても衣がなく、飢えても食べ物がなく、痩せ凍えて死んだという。
 これは、確かな事実として人が見たことである。内蔵允の言葉が思い合わせられるところだ。
あやしい古典文学 No.1290