『古今著聞集』巻第五「小野小町が壮衰の事」より

小町落魄

 小野小町が若くて、華やかな恋愛の日々をおくっていたころ、そのもてはやされぶりは比類ないものだった。『玉造小町壮衰書』には、「三皇五帝の后も、漢王・周公の妻もいまだこのおごりをなさず」と書かれてある。
 じっさい小町は、衣には錦繍のたぐいを重ね、食には山海の珍味を取りそろえ、すばらしい香を身にたきしめ、優雅に和歌を詠じて暮らしていた。
 幾多の男を取るに足らない者として見下し、いずれは皇后になろうかという望みすら抱いたが、十七歳にして母を失い、十九で父と、二十一で兄と、二十三で弟と死に別れて、寄る辺ない独り身になった。

 後ろ盾がなくては立身の見込みもない。目を見張るほどだった豪奢な暮らしも、日ごとに貧しくなった。
 絶世の美人と謳われた容色は齢を重ねるにしたがい衰え、それとともに、交情のあった男たちも次第に遠ざかった。破れ家から月だけが虚しく澄んで見え、荒れ果てた庭に雑草ばかりが生い茂った。
 そんなとき、歌仲間の文屋康秀が、三河国の三等官の職を得て赴任するにあたり、
「小町よ、私と行かないか」
と誘った。
 その返事の歌は、

侘びぬれば身をうき草の根を絶えて さそふ水あらばいなんとぞ思ふ
 (すっかり落ちぶれたわたしだから、根なし草みたいに誘い水に流されて行くのもいいかもね。まァ、やめとくけど…)

 その後、いよいよ零落して、しまいには山野をさすらったという。人間の運命のはかなさが、よくわかる話だ。
あやしい古典文学 No.1292