無住『沙石集』第四「臨終に執心を畏るべき事」より

首くくり上人

 京都の近郷、大原の里に、一人の上人があった。無智だが信仰心の厚い僧で、このような浮世に生き長らえても無駄だと思い、
「二十一日間の無言の行をなして、結願の日に首をくくって臨終しよう」
と決心して、仲間の僧三人に相談したうえで、道場に籠った。
 このことを噂に聞いた大原の僧正は、貴いことだと心を打たれ、仏縁を結ぼうと、往生講を執り行った。
 かの上人は、無言の行のあいだ、言いたいことがあるとものに書きつけていたが、その書きつけの中に『念仏を聴聞して、往生の志をいっそう固めたい』とあったので、都の名僧たちを招いて、七日間の念仏も行われた。
 そうこうするうちに、京都じゅうの出家や俗人の男女が噂を聞き及んで、仏縁を結ぼうと押しかけてきた。その人々が、
「お姿を拝ませてください」
と言うと、上人は道場から出てきて、人々に拝まれたりした。
 最初に相談を受けた三人の僧は、だんだん大仰な騒ぎになってしまったのが苦々しく、納得できない思いを持つようになった。

 やがて、無言の行の日数も満ちた。
 臨終の前に身を清めるべく、行水などを用意する段取りになって、同門の僧の一人が、
「ことここに至って、もはや心残りのことなどありますまいが、人の心は定まりないもの。もし妄執を捨てきれなかったり、お悩みのことがあったりするなら、おっしゃってください。もう無言の行を続ける必要はありません。心にわだかまるところなく臨終なさるのがよろしいかと存じます」
と言うと、たしかにそうだと思ったのか、上人が口を開いた。
「思い立ったその時には、きっぱりと勇ましい気持ちだった。先日、湯屋の房が焼けて、房の主が焼け死んだと聞いた時にも、一日でも早く臨終して、そんな辛い話を聞かないで済むようになりたい、早く死んでしまいたい、と思った。だが、このごろは心が弛んだのか、急いで死ななくてもいいような気がするのだよ」
 この会話を、主だった弟子の一人が聞いた。その者は京都の町に住む在家法師で、このたびの臨終に立ち会おうと来ていたが、道場に入れてもらえなくて、いささか不満そうな顔で障子の外に座っていたのだった。
 その弟子は、声高に言い立てた。
「そういうことは、まだ何も決まっていない時に言うものです。これほど派手に披露して、日も時刻も定まっているのに、今更ぐずぐず言って中止するなど、絶対にあってはならない。その迷いは天魔の仕業にちがいありません。さあさあ、すぐにも行水をなさいませ。急がないと、時間に遅れてしまいますぞ」
 上人は顔をしかめ、ものを言いかけた口を閉じた。心ならずも行水をすませ、房の前の榎木に縄をかけて、縊れて死んだ。
 人々はそれを貴んで拝み、めいめい上人の道具を形見に取っていった。

 それから半年ばかり経ったころ、天台座主の僧正が病みついた。
 苦しみようが尋常でなかったので、護身の加持をし、陀羅尼の呪文などを唱えたところ、僧正は様々なことを口走った。
「ああ、なぜ引き止めてくれなかったのですか。やめようと思っていたのに、止めて下さらなかったのが怨めしい……」
 かの首くくりの上人が、取り憑いたのであった。
 まったく妄念・執心は、忘れがたく捨てがたいものだ。だから、心残りがあるとわかった時に、とにかく思いとどまるべきだったのに、つまらない外聞にとらわれ、無理をして首をくくり、魔道に入ってしまった。無益なことに思われる。
 妄念・執心の恐ろしさを、よくよく心得ておかねばならない。

 これは、首くくりの上人の知己であった大原の僧が、
「この目でよく見たことだ」
と言って、じかに筆者に語ったもので、確かな話である。
あやしい古典文学 No.1296