只野真葛『むかしばなし』より

嫌な客

 遊女が思いがけない人と連れ添うのは珍しいことではないが、筆者が実際に見聞きしたことなので、ここに記す。

 吉原の金屋という妓楼に、直衛という遊女がいた。
 直衛は、理屈をこねるほかには話し方を知らない高井孫兵衛という片意地な客のことが、つくづく気に入らず、嫌だ嫌だと思ってばかりいた。
 だから会うたびに露骨にはねつけたが、孫兵衛はこりずに通ってくるので、できるかぎり顔を出さずに、待たせておくようになった。
 ある夜、例によって待たせるうち、禿(かぶろ)も新造(しんぞ)も飽きて、客を残して座敷を出てしまった。
 直衛が、ちょっとは顔を見せねばなるまいと思って、いやいや座敷を覗いたときには、孫兵衛の姿はなかった。店の者に聞いても、誰も知らなかった。
「おおかた、お帰りになったのでしょう」
と返事するのを聞いて、そうかもと思い、
「ほんとに帰ったか」
と聞いてまわった。すると誰もが帰ったと言うので、たいそう喜んだ。
「みんな、おいで。嬉しいことがあったよ。嫌な客人が帰ったとさ」
と仲間を呼び集め、美味いものを取り寄せて食いながら、孫兵衛の嫌なところを思い出しては繰り返し語り、大いに気を晴らした。
 ところが、もはや悪口も言い尽した頃合を見計らったかのように、背後の戸棚がさらりと開いて、孫兵衛が出てきた。
 ほかの女たちはいっせいに逃げ去り、直衛ひとり消え入る思いで、赤面して無言でいたが、孫兵衛は、ひどく腹を立てそうなところなのに、怒りの色もなかった。
「金で買われる勤めの身とはいえ、若い心に好いた好かぬがあるのは、当たり前のことだ。そなたの言うとおり、わしの振る舞いが悪かった」
と感心した様子で、おとなしく帰ったという。
 直衛はいよいよ面目なかった。それが遊女の本心だとはいえ、あまりに言いたい放題の下品な物言いをして、それを聞かれてしまったことを恥じ入り、心が晴れることがなかった。
 思い煩ってばかりいるところへ、孫兵衛から、人を介してこんなことを言ってきた。
「先般、そなたの心中は残らず聞き知った。それほど嫌われたわしが、そなたと切れて望みをかなえてやるのは、たやすいことだ。しかし、客を無遠慮にそしるのを聞きつけられ、客が愛想をつかして来なくなったと評判が立っては、外聞が悪かろう。外聞はさておいても、親方に顔が立たないのではないか。なにはともあれ、一度は馴れ初めたのだ。この先、あらためて親身の客として逢ってくれるなら、このあいだのことは他言すまい」
 直衛は、渡りに舟と喜んで、その言葉に従った。
 それ以来、じつに打ち解けた仲になって、ついに直衛は請け出され、一生連れ添う夫婦となった。

 二人は数寄屋町の河岸のあたりに住んでいて、わが工藤家によく来る客であった。先方へも、茶湯の振る舞いにたびたび呼ばれて行ったものだ。
 そんなわけで、孫兵衛という老人を筆者も見たことがあるが、いかにも女に嫌われそうな人であった。
あやしい古典文学 No.1304