津村淙庵『譚海』巻之六より

猿の別れ

 寛政四年の冬、江戸本所六ツ目の葛西の渡しでの出来事だ。

 渡し舟に、猿回しと侍が乗り合わせていたが、どうしたことか、猿が侍の腕をしたたか引っ掻いてしまった。
 侍は激怒して、
「その猿をよこせ。叩き斬ってくれる」
と猿回しに迫った。
 船中の人々は口々に、
「畜生のしたことです。堪忍なさいませ」
などと宥めたけれども、侍はまったく聞く耳を持たなかった。
 やがて舟が対岸につき、客はみな陸に上がった。しかし、侍は、
「とにかく猿を渡せ。さもなければ、おまえもともに叩き斬るぞ」
と、猿回しを取り押さえて放さない。
 猿回しはひたすら詫びたが、許されそうにないと分かって、ついに諦めた。
「では仕方ない。猿をお渡ししましょう」
 侍にそう言うと、傍らに猿を座らせ、
「わしは何年来、おまえの助けで世を渡ってきた。だが今、思いがけない過ちから、おまえを手放さねばならん。殺されてしまうと思うと可哀想でたまらないが、どうしてやることもできないのだ。そのことをどうか分かって、潔く死んでくれ」
とつぶさに言い聞かせてから、猿を繋いだ綱を切った。猿回しが猿を放つときには、綱を切る作法があるのだった。
「こんなふうに別れることになるとは、思いもかけなかったよ」
 猿回しは、泣く泣く切った綱を侍に渡した。
 その綱を侍が受け取った瞬間、猿は侍の喉首に飛びついた。そのまま深く食い入って、喉笛を食い切ったので、侍はあえなく息絶えた。
 あれよあれよという間の出来事であった。
 猿は、人々が驚き騒ぐのにまぎれて、川の深みに身を投げて死んだという。これも哀れなことであった。
あやしい古典文学 No.1320