横井希純『阿州奇事雑話』巻之一「井内良馬」より

仙馬

 当国阿波の三好郡井内谷の山中では、馬が飼育されている。古来より今に至るまで、良馬を産する。
 ある説によれば、名高い「生月(いけづき)」という馬はこの辺りの産で、名西郡第十村の寺で飼われた。いたって気立てのよい馬で、土地の若者どもが戯れにまたがり、近くの吉野川を渡った。他の馬は渡れない四国一の大河だったが、この馬は苦もなく向こう岸まで至った。
 そのようにして幾年も過ごして後、どんな縁があったのか鎌倉へ行き、生月と呼ばれて、源頼朝の秘蔵の馬となった。
 元暦元年正月、頼朝が、木曽義仲を討つべく大軍を差し向けた際、佐々木四郎高綱がこの馬を熱望して給わり、宇治川の先陣を果たした。生月はもとより名馬だった上に、宇治川より大きい吉野川を人を乗せて渡る鍛錬を積んでいたから、それができたのである。
 その後、老いた生月は、中国地方で余生を送り、三百余歳にして命を終わったという。

 しかし、生月が阿波の産だということは、どの伝記にも書かれていないし、江戸・京都・大阪の三都でも、他の諸州でも、そんな話は聞かない。阿波にその説があるばかりだ。
 一方、この馬は江州生月村というところで産まれ、それゆえ生月と名づけられたという説がある。こちらが真実に近いだろう。当国でずっと言い伝えてきたことだから、上記のごとくあらましを記したが、信用しがたい。

 生月が三百年の寿命を保ったというのも信じがたいが、こちらは全くあり得ないとも言い切れない。
 源平の乱のとき、源範頼が乗った「虎月毛」という名馬は、範頼が平氏追討のために九州へ下ったおり、源氏に従って戦功の多かった肥後の菊池氏が給わり、菊池家で秘蔵して飼われた。
 菊池家が数代を経ても、虎月毛は健在であった。菊池家の軍陣でも戦功があり、かつ無類の長寿だったから、ついには五百石の俸禄を支給され、自由で穏やかな引退生活が送れるようはからいを受けた。
 さらに時代が移って、菊池家はだんだんに衰微し、豊臣秀吉の時代になると、加藤家が肥後を給わって熊本を居城とした。そのころでも虎月毛は存生で、相変わらず五百石の禄を受けていた。加藤家も、「希代の名馬だから、国の飾りともなる」として、従来どおりの石高を支給したからである。
 虎月毛は、寛永年間に死んだ。その命、およそ五百歳。馬の身で五百石の禄を得て、五百年の寿命を保ったのは、古今にかつてないと言うべきだ。
 ちなみに、この馬の葬礼は、五百石の侍の葬式にまさり、野辺送りの人は千人を超えた。墓碑も大きく立派で、今も熊本の城下にあるという。
 この話は本当だと思われる。人でも馬でも普通聞かない話だが、生き物のうちには、狐狸の類、また鶴亀そのほかに、果てしもない生を得るものもある。だから、人ならば仙人、馬ならば仙馬とも称すべきこんな事例も、道理としてあるのではなかろうか。
あやしい古典文学 No.1322