『文化秘筆』より

長屋の幽霊

 成田宗信という小網町の医者が語ったことである。

 宗信が住まいする長屋に、何かの商売をしているらしい町人の一家が越してきた。その一家は主人と女房と子供二人で、もとは両国辺にいたとのことだった。
 転宅後しばらくすると、夜、婆が一人やって来た。
「おまえさんたちは、ここに引っ越しなすったのか。この間から方々を散々捜し歩いて、ようやく今日訪ねあてたことよ」
 婆がこう話したのは、隣家にもよく聞こえたが、姿はよその人には見えなかった。
 そのあとすぐ、町人の女房はたいそう苦しみ、大声をあげ続けた。
 翌朝、隣家の女房が来て、
「昨夜、どこからかお客があったあと、何か御難儀の様子でしたが、いったいどうなさったのですか」
と尋ねた。
 町人の女房は、嘆きながら言った。
「私どもが両国辺に住んでいたとき、あの婆の幽霊が毎晩来て、私を責め苦しめました。堪えかねて引っ越しましたのに、婆はここまで追ってきたのです」
 話を聞いた長屋の者たちは、
「この長屋では、冨士講というものをやっている。この講に入って念仏でもすれば、来なくなるのではなかろうか」
と勧めた。
 そこで、講に入って信心をし、念仏を唱えたところ、やって来た婆が、
「大勢寄って念仏し、おれを責めるとは怨めしい」
と怒りちらし、それまでは夜だけ来ていたものを、昼も夜も来るようになった。
 町人の女房が髪を結っていると、その手を掴んで邪魔をする。魚を洗うのを邪魔し、魚を滅茶苦茶に切り崩したりする。
 長屋じゅうの者がことのほか怖がって、女は夜中の小用にも一人で行けないほどの恐れようだそうだ。
あやしい古典文学 No.1334