村純清『奇事談』「空中妖言」より

空中妖言

 宝暦三年、能登国鳳至郡の駒田と東山で、
「法界じゃ、法界じゃ」
と呼ぶ声が、地上四五メートルくらいの空中から、しきりに聞こえた。呼ぶものの形はなく、声ばかりが聞こえた。雨風の日も、絶え間なく聞こえた。

 同じころ、東山の次平という百姓が放し飼いにしていた牛を、牧童が曳きに行ったところ、牛が二頭になって、そっくりの顔を並べていた。驚いて家へ戻り、次平に話して、今度は二人で行ってみると、牛はまた一頭になっていたので、そのまま曳いて帰った。
 また、隣村の庄屋で源右衛門という者が、家内皆が田植えに出たあと、一人で家に残っているとき、にわかに天井からバラバラという音がした。『鼠の小便かな』と見上げると、さらにバラバラと床に降ってきたのは、血であった。それより家じゅう、隅々までバラバラと血が降り、衣装・諸道具ことごとく血にまみれた。

 やがて法界を呼ぶ声は止んだが、この一連の怪事は後々までも語り伝えられた。
 ある人が言うには、「血の降る怪事は、貂(てん)が子を産んだときに必ずある」のだそうだ。だとすれば、法界を呼んだのは狐狸などによる怪で、血が降ったのはまた別事なのだろうと思われる。
あやしい古典文学 No.1339