古賀侗庵『今斉諧』巻之四「熊谷之怪」より

熊谷の怪

 加賀金沢の侍である某は、しばしば使い役として、江戸の加賀藩屋敷と国許の間を往来していたが、あるとき武州熊谷を過ぎようとしたところで、突然足が躓いて、地面に倒れた。

 起き上がりながら周囲を見回すと、さっきまでと景色が一変していた。山も川も道も、いまだかつて見たことのないものだった。
 なぜか無性に心がはやった。歩き出すや、急ぎ足が止まらない。たちまち山路が尽きて、一軒の茶店の前に至った。
 急に激しい渇きをおぼえて、茶店に駆け込んだ。店の老婆を呼んで飲み物を求めたが、返事もしない。繰り返し何度呼んでも同じで、らちが明かない。
 怒りがこみ上げ、婆に近づいて打ち叩いた。婆は即座に昏倒した。店じゅうが驚いて助け起こし、奧へ連れていった。
 さらにまた、別の店の者に飲み物を求めた。やはり返事をしない。殴ったら一発で引っくり返った。

 『いったいどうなってるんだ!』怪しみかつ恐れ、急いで茶店を出た。
 なんだかひどく空腹だ。辺りを見回せば、道端に店があって、たくさんの果物を並べている。大いに喜んで、銭を握って買いに入った。ところが、やはり店の者は知らぬ顔だ。やむを得ず無断で食べ物を掴み取ったが、だれにも咎められなかった。
 その後は、酒屋・茶店を見つけるたびに飲み食いし放題で、一銭の代金も払わなかった。
 路上で行きあう人はみな、手で触れるだけで引っくり返った。それが面白くて、数知れぬ人々をなぎ倒した。

 足が止まらぬままどんどん行くと、大きな城の前に出た。
 城門が開いている。中に入ると番人がいたが、まったく制止されなかった。
 城内を好き勝手に歩き回っていたら、にわかに数百人の山伏が現れて、おのおの蓆と縄を手に追いかけてきた。
 『道で暴れた罪で捕まってしまう。調子に乗ってやり過ぎた』とはじめて後悔したが、もう遅い。山伏は四面に充満し、ついに包囲されて捕らえられた。泣き叫んでも許されず、蓆を巻かれた上から縄で縛られ、川に投げ込まれた。

 ふと、夢から覚めたかのように我に返ると、身は熊谷の路上にあった。躓いて転んだ場所のままだった。
 とにもかくにも江戸の藩屋敷へ急行したが、すでに予定の日を五六日も超過していたため、俸禄召し上げの処分を受けた。
 当時、某の弁明は誰にも信じられなかった。しかし、後に加賀藩四代藩主前田綱紀公が委細を聞いて、
「そういう出来事は、中国の書籍にも載っている。いわゆる『地陥』というものではないか」と語ったそうだ。
あやしい古典文学 No.1352