柳川亭『享和雑記』巻二「濃州徳山くろん坊の事」より

濃州徳山黒ん坊

 美濃の国の大垣から北へ行くこと十里に、外山という所がある。しだいに山中へ入る道だが、ここまでは牛馬が通う。
 外山から先は険しい山道となり、登り下り三里の難所を越えて根尾に至る。山中に二十七ヵ村あり、「泉除(いずのき)川」という川がある。その名の由来は、昔この辺り一面に水の流れが滞留していたのを、岩山を切り崩して放水路を造り、水のはけた平地としたことによるらしい。
 泉除川の鮎は、いたって風味がよい。鮎の時節には、川下の外山までの三里の間、七ヵ所に簗を設けて、たくさんの鮎を獲るけれども、国主に献上されるのは川上の根尾の鮎で、ここでは格別の大鮎が獲れる。

 根尾から五里の山道を行って、徳山という所に至る。徳山八村は三里四方ほどにわたるが、ほとんど山ばかりで、平地はごくわずかである。ゆえに一村の戸数は、たいてい五六軒から十軒に過ぎない。その中では本郷という村が、多少平地があって民家も多い。
 このあたりの山々には艾(よもぎ)がおびただしく生い茂るので、薬艾(もぐさ)を多く産する。また胡葱(あさつき)が自然に生え、いくら採っても尽きることがない。山葵(わさび)はたいそう風味がよく、里人が採って名古屋・大垣・桑名に持っていけば高値で売れる。
 楮(こうぞ)と櫨(はぜ)の木が多く、紙漉きが行われる。これを生業として、大きな家で男女二十人ばかりも召し使う裕福な百姓が三軒あるほか、相当な暮らしの家が多い。
 深山だから、冬に四五メートルの雪が積もるのは普通だ。大雪の年には六メートル以上積もることがある。
 田んぼはない。畑はあるが、麦さえもよくは実らず、わずかに蕎麦の栽培に向いている。五穀が乏しいため、栗・柿・椎・樫の実のたぐいをすべて主食とする。四方の山から思いのままに採って来て蓄えておくので、食に不足はない。なかでも橡(とち)の実を第一とするが、これはそのままでは苦くて食えないため、灰汁に漬けておき、引き上げて清水に晒して食う。あっさりと甘くて、いかにもよい味わいのものだという。
 住む者には、色白で肌理こまやかな美男美女が多い。しかし言葉は粗野な方言で、美濃の言葉に似ていない。

 山には、「黒ん坊」と呼ばれるものがいる。形は猿のようだが背丈が大きく、色が黒くて毛が長い。立って歩く様子は人に変わらず、よく人語を操る。人間の心を読む力があり、人間が彼を殺そうと思っても、あらかじめその意を察して逃げ去るので、捕らえることが出来ない。
 この黒ん坊が、善兵衛という、奥山に入って木を伐り出すこと数十年の木こりにいつしか馴れて、善兵衛が山へ入るとやって来て手伝うようになった。大いに助けとなり、害をなすことはなかった。後には善兵衛の家へも来て、人のように働くことが度々となった。

 善兵衛宅の近所に、三十歳くらいの後家がいた。美しい容貌の女で、人々は再縁を勧めたが、十歳ばかりの男子がいて、ゆくゆくはその子に家を継がせて自分は後見しようとの考えから、縁談を断り、独身で暮らしていた。
 しかるにある時期から、夜が更けて村が寝静まると、誰かが後家の寝床に来て、しきりに犯そうとするようになった。それが夢ともうつつとも定かでなく、後家ははなはだ恐れ怪しんで、ついに人々に打ち明けて相談した。
 村人たちは、正体を見極めようと、物陰に忍んで待った。しかしその夜は来ず、さらに二三日も夜毎に待っても何事もなかった。それで待つのをやめると、以前のように怪しいものが来るのだった。
 後家はたいそう心を痛め、家に昔から伝わる尊い観音像に、「この災難からお救いください」と一心に祈った。すると、その夜の夢に、
「人頼みでは、おまえの難儀は去らない。心を定めて決着をつけよ」
とのお告げを受けた。
 後家が覚悟を決めて待っているところへ、その夜また怪しいものが来た。そいつは怒りと怨みで逆上した様子だったが、やがて、
「このうえ我の言うままにならないなら、おまえが日ごろ大切にする観音を叩き壊して捨ててやる」
と、仏壇から像を掴み出した。
 その瞬間、後家は夢うつつからしかと目覚めて、隠し持った鎌で切りつけた。思いもよらないことだったのか、かのものは大いに狼狽して逃げ去った。
 後家の子が近所を走り回って急を告げたので、すぐに人々が集まった。血の跡をたどっていくと、善兵衛の家の縁の下に入り、そこから山の方へ逃げていったようだった。
 以後、善兵衛方に黒ん坊が来ることはなくなったから、きっとその仕業だったに違いない。

 この黒ん坊は、「玃(やまこ)」の類であろう。
 玃のことは『本草綱目』に書かれている。牡ばかりで牝がなく、よく婦女に接して性交し、子をなすという。美濃・飛騨は深山が多いから、そうしたものも棲むのだ。
あやしい古典文学 No.1358