野田成方『裏見寒話』追加「怪談」より

四手八足

 甲斐国の東郡に、蟹沢村というところがある。往古から今に至るまで、渓流が田畑にあふれ、いたるところに蒼い水が広がり流れる、なにか異様な景色の地である。

 その村の長源寺という寺で、昔、いつのまにか住職の姿が消えるということがあった。首だけ残して胴体は影も形も失せた住職もあった。住職に就いたその夜にいなくなった者もいた。
 また、日が暮れた後に寺の近くを通る人が、たびたび、水辺の葦の茂みから現れ出た異形のものに追われた。坂を駆け登った運のよい人は、それ以上追われることなく逃げ延びたが、逃げ切れずに命を取られた人も少なくなかった。

 長源寺は無人の寺となり、そのまま年月が経った。
 いっそ取り壊して更地にしようと、村人たちが相談し始めたところへ、一人の回国の旅僧が来て、
「どうか、その寺に一宿させてくだされ。どんな奇怪が起こるか見届けたうえで、法力をもって退治したいものです」
と申し出た。
 人々は、やめたほうがいいと口々に言ったが、僧が聞き入れないので、やむをえず寺に泊まらせることにした。

 旅僧はもともと豪強の者で、その夜は枕もとに大斧を置いて備え怠りなく、静かに横になっていた。
 宵のうちは何の不思議もなかったが、深更になって、本堂と庫裏がしきりに鳴動して物凄く、軒端に洩れる月影の方から、しわがれた声が呼びかけてきた。
「おい坊主、四手八足とは何だ?」
 僧は眠ったふりで、妖怪がそろそろ近寄るのを黙ってうかがっていた。
 真黒なものが、ついに枕もとへ這ってきて、また、
「四手八足とは何だ?」
と言うとき、僧はがばっと跳ね起き、
「おのれに問え!」
と大喝一声、大斧を振るってしたたかに切りつけた。
 妖怪はたまらず逃げ走った。寺内は音たてて激しく揺れ、建具も柱も倒れ乱れた。

 夜が明けて、村人たちがやって来た。
「あの僧も妖怪の餌食になったのではないか。かわいそうに」
 安否を案じながら寺に入ったら、僧は高いびきで寝入っていた。揺り起こすと、暢気に欠伸などして起き上がって、夜中の出来事を語った。
 枕もとを見れば、大量の血だまりがあった。大勢でその血の痕をたどっていくと、山の岩穴から呻き声が聞こえた。
 穴の中には、巨大な川蟹が這いつくばっていた。甲羅の大きさ二間四方、歳を経て総身に毛を生じた蟹が、背中を切られて、半死半生で苦悶していた。
 それを穴の外へ引き出しておいたら、その日の暮れ方に死んだ。

 以後は怪事がなくなったので、長源寺はかの僧を中興開山として復興し、今もその地にある。
 寺には、怪をなした大蟹の甲羅がある。また、その村を「蟹沢村」といい、蟹に追われた人が逃げ登った坂を「蟹迫坂」という。
 今も、村の沢が増水すると、六七寸ほどの蟹が数多く出てくる。「図蟹」といって、塗り薬などに用いるそうだ。
あやしい古典文学 No.1362