『南路志』巻三十六より

鯨に憑いた死霊

 三津浦の網元 岩貞曽右衛門が鯨漁の舟を出したとき、一人の羽指(はさし)が鯨の鰭ではたかれて死んだ。
 羽指とは、銛を打ち込んだ鯨の鼻に綱を通す者だ。危険な役目だからこうした事故に遭うこともあるのだが、とはいえ不憫なことだと、その鯨は羽指の妻子に与えられたという。

 その後のあるとき、三津浦の一人の漁師が夜釣りに出た。
 たまたまその夜は大いに釣れて、もう十分だからと帰りかかったとき、向こうの方に鯨が浮かび出た。驚いて逃げようとしたが、鯨はいよいよ近づいてきて、
「久しぶりだな。なつかしいよ」
と言った。その声は、死んだ羽指の声そのものだった。
 漁師は、この恐ろしい体験を誰にも語らずにいた。夜釣りにも行かなくなったが、かの夜の釣果の素晴らしさを思い出すにつけ我慢できず、ついにまた出かけた。
 するとまた、例の鯨が浮かび出て話しかけた。
 あたふたと逃げ帰り、このたびは妻子に怪事の次第を語ったところ、たちまち乱心した。あれこれ祈祷などして、やっと正気に戻ったそうだ。
あやしい古典文学 No.1363