阿部重保『実々奇談』巻之七「刀鍛冶怪異を斬る事」より

妖刀

 明暦の頃のこととかいう。
 京都三条通に、政次と名乗る刀鍛冶があった。家伝によれば村正の血筋といい、日々、鍛刀の営みに励んでいた。
 しかしやがて、ことのほか和やかで温順な京都の水が物足らなくなった。美濃の国にはよい水があると聞いて、修行のために行ってみようと、家をたたみ、道具を菰に包んで携えて旅立った。

 政次は、水の良い場所はないかと処々方々を見て回った。
 旅の日を重ね、今宵は大垣で一宿するつもりでいたところ、はや日は西に傾いた。人家を離れた夕暮れの原野を心細く歩むうち、さいわい草刈りの女に出会ったので、大垣への道筋を尋ねたところ、
「大垣でお泊りなら、ここから二里あまりですが、街道まではずいぶん入り組んだ道で分かりにくいですよ。それより、この道を左に進んで半里ほどの、富士牧村へ行ってはどうですか。村の名主の藤左衛門さんは世話好きで、旅の方などが難儀していると、一夜を明かさせてくれるそうです。とにかく大垣への道は大変ですから」
と、親身に教えてくれた。
 日はいよいよ西山に沈みかけ、あたりが薄暗くなってきた。女に教えられたとおり道を急いだが、ともすれば迷いがちになる。
 ふと見ると、森の茂みに古い社があった。屋根も格子戸も風雨に朽ち崩れ、惨憺たるたたずまいである。
 社の内に、人がいるらしかった。近づいて覗くと、鼠色の衣服を着た齢六十あまりの老人が、左右に垂らした白髪をふるいながら、何か一心不乱に念じていた。そのさまは、人の形ながら人に見えない異様さであった。
 『こんな異人もいるものなのか』と驚きながら、何度も富士牧村への道を問いかけたが、応えない。『よほど耳が遠いらしい』と諦めてその場を立ち去り、ようよう富士牧村に辿り着いた。

 名主の藤左衛門の屋敷を聞いて行って見れば、なるほど立派な門構えの家で、下人十四五人、勝手働きの女も四五人いる富裕の農家である。
 政次は案内を乞い、一夜の宿を頼んだ。
「旅の者でございます。刀鍛冶をいたしたく、よい水を求めてこの美濃まで参りました。今宵は大垣に泊まるつもりのところ、はからずも日没が迫り、難儀しております。どんな物置の隅でもかまいません。泊めていただけませんか」
 取次の若い者が奥に伝えると、大家とはいえ百姓であるから、藤左衛門が直々に出てきて挨拶した。
「御頼みの趣、承知いたしました。お泊りください。まずは足をすすいで、こちらへお上がりを…」
 案内されるにまかせて据風呂で旅の汗を流し、田舎風ながら用意された食事も済ませた。そのあと、主人の待つ奧の間に通された。
 政次が志を抱いて都から旅立ったことを語ると、藤左衛門は膝を乗り出して、
「それはまことに好都合。都の話も聞きたいし、また脇差を一振り打ってもらいたい。所持している腰刀は、少々短いのです。当地ではやや長い刀の形を賞美しますが、いまだ我が心にかなう品に出会えません。どうか注文どおり打ち上げてくださらんか」
と頼んだ。
「承知いたしました。相槌の者はおりますか」
「当村から大垣の包丁鍛冶へ働きに行く者が三人。この者らでよろしければ頼みましょう」
「それで差し支えありません」
 それから刀のことで話が弾んだが、藤左衛門が所持する刀剣幾つかを見せると、
「これは相州物、これは備前物で、銘はかくあるべし…」
などと目利きにも詳しいので、『この人は名人だ』と、いよいよ頼みに思われた。
 政次が水のありかを問うと、
「さいわい庭先に流れがあります。飛騨の養老の滝から落ちて流れる水で、当村の水はほかよりよろしいかと」
「ほう、それはますます結構…」
 その後は、さまざまな話に打ち興じて、やがて寝に就いた。

 政次は四畳半の一間をあてがわれ、三日間、旅に疲れた体を休ませた。
 四日目の朝、早くに起き出して、
「今日から刀を打ちましょう」
と告げると、藤左衛門はたいそう喜び、下男を督励して庭先に鍛冶場をこしらえ、しめ縄を張った。まもなく、頼んだ相槌の者も来た。
 そこで、かねて用意の地鉄を用いて刀打ちにかかった。ところが、なぜか仕上げ前になると鋼にむらが生じて、用に立たなくなる。数日かけて四振り鍛えたが、すべて同じ結果だった。
「あまりに不思議だ。このまま続けても無駄だから、どうしたものか三日休んで考えることにしよう」
 相槌の者を帰した政次は、不審の晴れぬままに尋ねた。
「今日まで余念なく鍛えてまいりましたが、地鉄が悪いのか、仕上げになるとみな打ち損じます。どうにも合点がゆきません。もしやこの家に、何か障りになるようなことはございませんか」
 すると藤左衛門は、はたと膝を打った。
「うむ、今は隠さずお話ししましょう。手前には娘が一人おります。十八歳の年頃ですから、どこぞに嫁がせたいと存じながら、似合いの話もなくて今日に至っております。その娘が、先ごろ親類へ所用で出かけて夕方帰ってから、寒気がすると言って寝込んでしまいました。医者に診せましたところ、悪い風邪に冒されたとのこと。しかし薬を与えてもいっこう効き目がなく、この半月ほどは、真夜中になりますと手足をもがき、ひどく苦しげに大声で叫んで、どんなに手を尽くしてもおさまりません。明け方になるとすやすや眠りますが、毎夜のことですから、さすがに痩せ衰えて、見るも哀れな有様です」
 政次は大きくうなずいた。
「それで分かりました。これはまったく妖怪のしわざにちがいありません。今夜にでも確かめてみましょう」
 藤左衛門は大いに喜んだ。政次は、宵のうちは酒肴でもてなされ、やがて十時ごろになると、
「では、病人の寝間へ参ります」
と立って行った。
 政次は娘の寝床から少し離して自分の床を取らせ、怪の到来を今や遅しと待ち受けた。
 そっとうかがい見るに、病みやつれた姿ながらも美しい娘である。いかなる妖物に魅入られたのかと痛ましく、真夜中二時ごろまで夜着をかぶったまま眠らずにいた。
 そこへ、みしり、みしりと足音がして、忍び来る者があるようだ。首を上げて見たけれども、何者の姿もない。それなのに娘は、しだいに手足をもがき苦しみ、狂ったように叫ぶ。寝間に詰めている者たちはなすすべなく、ただうろたえ騒ぐばかりだった。
 政次は、妖怪は直接には目に見えないものだろうと考えて、娘の夜着の袖へ顔をさし入れて覗くと、なんと、白髪を乱した恐ろしい形相の異人が、娘の体にひたと抱きついていた。
 その異人をどこかで見たような気がして、しばし思いをめぐらせ、はっと気づいた。『先日、ここへの道を尋ねた古社の老人だ。さては人間にあらざる者だったか』。
 なおも息を殺して見ていると、しきりに娘を愛撫して離れがたい様子だったが、夜明け近くなったら、どこへ行ったものか姿が消えた。とともに、娘も悪夢から逃れたかのように、すやすやと寝入った。

 夜が明けた。
 政次が昨夜見届けたことを話すと、藤左衛門は驚き戸惑った。
「それはまったく只事でない。なんとかして娘を救ってやりたいが、いったいどうしたらいいのやら…」
「この政次にひとつ考えがあります。まずは、娘御をこっそり駕籠に乗せて親戚に送り預けます。そのあと、『娘は儚くも世を去った』と言い広めて葬儀を執り行うのです。寝間には位牌を置き、香花供物を飾って供養の態を装えば、妖怪も信じて、以後は来ないでしょう」
 藤左衛門は妙案だと思い、その日のうちに関係先に相談し、手はずをととのえた。
 翌日、野辺送りを賑やかに営んだ。仏壇には新たな位牌を据え、香を焚き、燈明を明々とともした。
 その夜は、家内の者は別間に臥し、政次ひとりが娘の寝間で待ち構えた。しだいに深更におよび、物音も絶えて、裏山に鳴く梟の声ばかりが怪しく聞こえる。
 ふと気づくと、どこから入ったか例の異人が、娘の仏壇の前にしょんぼり座って、さめざめと涙を流していた。しばらくそうしていたが、突然がばっと位牌を掴んで立ち上がり、物凄い形相であたりを見回しながら、霧のように立ち消えてしまった。
 政次は夜着の袖から始終を見届け、夜明けを待って藤左衛門に語った。
「しかじかのわけで、今宵からは、もう来ることはないでしょう」
 藤左衛門はじめ家内の者の喜びはひととおりでなく、大いに政次の妙計を褒めそやした。
 その夜ははたして何事もなく、さらに日を重ねても異状がなかった。そこで親類から娘を呼び戻し、病身の療治につとめたところ、しだいに快方に向かった。

 政次は相槌の者を呼び戻して、刀打ちを再開した。
 誠心込めて日夜鍛え、このたびは見事な一振りが出来上がった。それを磨ぎ師に頼んで白鞘ものに拵えたが、まことに切れ味冴えた業物であって、藤左衛門の喜びようは大変なものだった。
 あまたの礼物を政次に贈るとともに、
「まずは四五日、ゆっくり休息してください」
と引き留めたので、政次もその意に任せ、美濃の名所などを巡りながら日を過ごした。
 しばらくの逗留の後、いよいよ明日は出立しようと心を決め、長々の厚遇の謝意を述べると、藤左衛門も名残を惜しみつつ、あらためて一つの頼みごとを申し出た。
「この白鞘の脇差ですが、ふさわしい刀装をしたいと思っても、田舎の職人は手際が悪く、心もとないばかりです。都にはきっと格別の細工師がいることでしょう。来春までに柄の拵えと鞘塗りなど、お願いできますまいか」
 こう言って二十両差し出したので、政次は承知して金子を預かった。

 翌日、政次が、
「今日は一二里ほどで宿をとるつもりなので、午後遅くに出発いたします」
と言うので、藤左衛門は、旅立ちの前祝いとして蕎麦を打たせ、ゆっくり酒を酌み交わして名残を惜しんだ。
 時刻になると、政次は諸道具を預けおき、風呂敷に包んだ白鞘の脇差と少々の身の回りの物を持って出立した。
 しばらく歩いたところで、『道はだんだん寂しくなる。途中で曲者にでも出会ったら危ないが、この白鞘物があれば心強い』と思って、風呂敷から取り出して腰に差した。それが自らに降りかかる災いの前兆だったとは、神ならぬ身には知りようがなかった。
 はや日が暮れてきたころ、往路に来た道に出て、かの古社の前を通り過ぎた。
 例の異人のことを思い出し、『今はどうしているのだろう』と取って返して、忍び足で社に近寄って覗き見れば、異人は娘の位牌を拝殿の中に据え、さめざめと涙を流して悲嘆に暮れていた。
 政次の胸に、突然むらむらと怒りが込み上げた。『いまだ娘に心を残しておるとは、憎っくき妖怪め。今こそ息の根を断ち切ってくれるわ』。
 身を躍らせて社に跳びこむや、自ら鍛えた白鞘の脇差を振りかぶり、異人の襟元のあたりを斜めに斬って、首を打ち落とした。
 その瞬間、社は激しく家鳴りし、震動した。薄暗い中で首のない骸が蠢き、のたうちまわり、両手の爪がぎりぎりと床を掻きむしった。胴を離れた首は、生ける者のごとく白髪を左右に逆立て、睨みつける眼光はたとえようもない凄さだった。
 政次は予想外の光景に震えあがった。もはやこの場を過ぎて道を進む勇気などなく、一目散に富士牧村へ取って返し、藤左衛門の屋敷に駆け込んだ。
 藤左衛門は奥座敷で帳面を広げ、筆を執って書き物をしていたが、表のほうの騒がしさに、何事だろうと出てきた。
 見れば、政次が血相を変えてへたりこんでいる。どうしたのかと問うて、起こったことのありのままを聞いたが、
「それでも、ここまで来たからには、もう大丈夫ですよ。今宵は心安らかに眠り、明朝また出立なさい」
と言って、酒など出して慰めようとした。
 しかし政次は、いまだ動悸がおさまらず、盃もそこそこに伏せて、床に就いて休みたいと頼んだ。

 その夜は、しだいに荒れ模様となった。
 雷鳴を伴って風雨激しく、稲妻がしばしば地上を刺すごとくはためきながら近づき、立て続けに閃光が走ったとみるや、凄まじく落雷した。
 屋敷じゅうの者が床に伏して、声をあげることもできない。烈風が雨戸を破り、部屋の灯火をことどとく吹き消して、いずこも真の暗闇となった。
 そのとき、みしり、みしりと何者かが歩み来る気配があって、突然「ぎゃっ!」という悲鳴が娘の部屋から聞こえた。
 台所にいた気丈な男四五人が灯をともし、棒など引っ提げて行って見れば、そこは目も当てられない有様だった。
 藤左衛門をはじめ多くの女たちが失神しててんでに倒れ、娘はさんざんに掻きむしられて、全身血まみれで死んでいた。政次はどこへ行ったのか、姿がない。屋敷じゅう大騒動となった。
 藤左衛門らはまもなく正気づき、事態を知って悲嘆のあまり茫然となったが、やがて雷鳴も遠のき、雨もやんだので、泣く泣く娘の死骸を片づけた。
 政次の行方はやがて知れた。これまた残忍に掻きむしられて、庭の木の下で死んでいた。

 翌朝、二人の亡骸を野辺送りして、この惨劇は終わった。
 しかしその後も、藤左衛門の家では不幸・不運が打ち続いた。
「すべて、打ってもらった脇差の祟りではなかろうか。手元に置くべきではない」
 藤左衛門は、周囲に鉄金具を打った錠付きの箱に脇差を納め、村の鎮守明神に奉納した。
 ところが、時を経て、何者が盗み取ったのか、箱の中が空っぽになっていた。いろいろ詮議したけれども、犯人は知れず、脇差が戻ることもなかった。
 十年ほど過ぎたころ、江戸新材木町の紀伊国屋文左衛門が巨利を得て豪邸を建てる際、飛騨の国の大工が「親より譲り伝えし脇差」と言って所持していたのを買い取ったところ、災難に遭った。その息子の文左衛門も、いったんは大金持ちになり、世に「紀文」とまでもてはやされたが、奢りを極めた報いで、晩年は裏店住まいのみじめな暮らしだった。これも刀の祟りである。
 紀文が裏店に引き籠ったころ、脇差は同町の白子屋伊三郎方へ七十両の質物に入り、それが質流れとなって、伊三郎が自分の差料とした。すると「白子屋事件」と呼ばれる大事が起こった。店内から何人もの罪人が出て引き廻しとなり。店はつぶれた。
 紀文・白子屋については、よく知られたことなので、詳しくは記さない。
あやしい古典文学 No.1370