野田成方『裏見寒話』追加「怪談」より

荏草孫右衛門

 甲斐国の逸見筋(へみすじ)、荏草(えぐさ)の山中に、異人がいる。
 延宝年間あたりまでは、木こりの村人が山に入ると、いつの間にか近くに来て、木こりと一緒に木を伐って手助けした。名を訊くと、「孫右衛門」と名乗ったそうだ。

 孫右衛門は、みずからの来歴を木こりに語ることがあった。
「我は上州の生まれ。歳若くして両親を失い、それより大酒放蕩を尽くし、親族の諫めに耳を傾けようともしなかった。ついに皆に見放されて生国を去り、この甲斐国へやって来たのは、武田信虎公の時代だったと思う。我はもとより勇猛であったから、ひとり深山に入って猟をした。鹿やら猿やらを食い、人里へ出ないで幾々年、自然と山谷を棲み処として暮らしたのだ。それでも三十年くらい前までは、時々甲府の町へ出て遊ぶこともあったが、近年は人との交わりが煩わしくて、もっぱら駿河・甲斐・伊豆・遠江の山々を巡るのを楽しみとしている。その間に、木こりが食物をくれれば食うし、煙草をくれればふかすこともある」

 時代が下るとともに、ときおりちらっと姿を見かけるだけになった。もはや人に近寄ることもなくなった。
 正徳年間、荏草の村人が、山中で草を刈っていて、異形の者が岩上に立つのを見た。頭髪は真っ白で、黒白の髭が胸まで届き、眼がらんらんと輝いていた。
 驚愕して逃げ走る村人を追うように、たちまち暴風が起こり、黒雲が山頭に渦巻き、雷鳴が轟きわたった。
 これは孫右衛門の熟睡を妨げたためだろうと恐れて、村人たちは「孫右衛門天狗」と呼んだという。
あやしい古典文学 No.1371