『南路志』巻三十七より

七人みさき

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 天正十四年十二月、土佐の国主 長曾我部元親は、豊臣秀吉の命により、九州を北上する島津軍を迎え撃つ軍勢に加わったが、豊臣勢は戸次川の戦いで壊滅的敗北を喫した。元親は、嫡子信親をはじめとする数多の将兵を失い、命からがら土佐へ逃げ帰った。
 失意の元親は、信親にかわる後継者として、次男・三男を差し置いて四男盛親を選び、その強引な処置に家中が紛糾すると、側近 久武内蔵助親直の讒言もあって、ついに反対派の粛清を決意した。
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 天正十六年十月四日、元親は、重臣である吉良左京進親実の小高坂(こだかさ)の屋敷へ、桑名弥次兵衛・宿毛仁左衛門を検使に遣わし、左京進に腹を切らせた。
 死骸はそのまま小高坂の地に葬った。墓は、小石まじりの赤土を少し盛り上げ、笹垣を結い回しただけの粗末さで、さらに、縁故の者も後難を恐れて誰も参らなかったため、いつとなく草ぼうぼうの荒れ放題となった。
 左京進が世にあった日には、国主の甥であり、娘婿でもあり、知勇兼ね備えた武将として、誰もが畏れ敬ったものだったが、今は牛馬の蹄に穢されるままになった。その哀れさに、見る人は涙を流したことだった。
 そうするうち、夜ごと墓から火が燃え出るようになった。それを見てもまた、『妄執の深い人の墓には、必ず焔が燃えると聞く。いたわしいことだ。事実無根の讒言により命を失ったのだから、怨みがあるのも道理だ』と、涙の袖を絞らぬ人はなかった。

 ある夕暮れのこと、仁淀川の渡し舟に、西の岸から呼びかける声があった。
 船頭が急いで舟を漕ぎ寄せたところ、誰もいない。空耳かと思っていると、姿は見えないながら多くの人数が船に乗り込む音がして、
「急ぎ向こうへ渡せ」
と、何者かの声が命じた。
 船頭は、恐れ驚きながら東の岸に漕ぎ寄せた。すると、舟から皆が上陸する音がして、最後の一人とおぼしき声が、
「こちらは、吉良左京之進どのであらせられる。不義の者どもに目にもの見せんと、一党を引き連れて大高坂(おおたかさ)城へ赴かれるところだ。やがて、大高坂で不思議のことがあったと聞き知るであろう。また、お帰りにもこの舟をお召しになるが、けっして恐れてはならぬ」
と言い捨て、前の者を追って遠ざかる気配がして、その後はしんと音もなかった。
 船頭は怖ろしさに震えあがり、慌てて我が家へ帰って出来事を語ると、聞く人もみな舌を震わし、身の毛のよだつのを覚えた。
 どんなことが起こるかとそばだてている耳に、やがて恐ろしい噂が伝わってきた。

 久武内蔵助の子で五六歳になる男児が、庭に出て遊んでいると、どこからともなく老女が来て、
「さても美しき若殿じゃ」
と言って抱こうとしたとたん、男児はわっと泣いて気絶した。
 周囲にいた男女が驚いて、水だ、薬だと騒ぎ、なんとか息を吹き返したところで、
「さっきの老女は何者だ」
と探したが、もうどこにも姿がない。
 これは只事ではないというので、験力にすぐれた僧を招き、加持祈祷を行った。するとその場で、男児はにわかに狂いだし、大声をあげた。
「悪人め、生かしておかぬ」
 喚いて手足を突っ張り、身を震わし、そのまま昼夜苦痛して、狂い死にした。その無惨さに、内蔵助は身悶えして悲しむこと限りなかった。
 続いて男児の初七日にあたる夜、惣領の男子が一間に立てこもり、
「南無阿弥陀仏…」
と声高に唱えた。屋敷内の男女が怪しんで、急ぎ行って見れば、腹一文字に掻き切って、血にまみれていた。
 内蔵助が泣きながら、
「なにゆえの自害か」
と問うと、
「元親様の御命令により、検使が二人参りましたゆえ、やむを得ず…」
と、言い終えぬうちに息絶えた。いったいどんな幻を見たのだろう。不思議なうえにも不思議な出来事であった。内蔵助の妻も、悲しみに堪えられなかったか、その夜のうちに自害して果てた。
 これを聞いた人々は皆、『さては、仁淀川の渡しの船頭が言ったことは本当だったか』と、身震いして恐れたのだった。
 内蔵助の子は八人いたが、このようにして自害あるいは乱心、またさまざまな不思議が起こって、ほとんど死に失せた。末子がただ一人生き残ったが、慶長五年の長曾我部没落の後、九州の方へ去ったという。

 内蔵助の従弟に、五月新三郎という者がいた。
 新三郎が所用で国沢から小高坂へ行き、夕暮れに左京進の墓近くを通ると、そこに齢のころ十六くらいの高貴な女が、あでやかな衣装を着て薄衣を手に持ち、うちしおれ涙ぐんで立っていた。
 この女を見るや、新三郎は心奪われ、暫時呆然とした。しかし、『いやいや、こんな人がこんな場所に、一人出てくるはずはない。変化のものが化かそうとするのかも』と我に返り、よくよく思案の上、『だが、何者にせよ、見捨てて行くわけにもいかない』と、つかつかと近寄って、
「この辺りには見慣れぬお姿。この夜分に、なにゆえここにおいでになるのか」
と親身に問いかけた。
 女が答えて言うには
「恥ずかしながら、わたしは泰泉寺の生まれで、今年の春に国沢に縁づきましたが、夫は心変わりして、他に女をつくりました。捨てられたわたしは、妬ましく思いながらも夫への想いを捨てがたく、涙にくれて過ごしてまいりましたが、もはや今は忍びかね、どこぞの淵へ身を投げようと、何度思ったかしれません。しかし、ニ三年前に父に先立たれ、母は一人寂しく残されて、わたしのことを月とも花とも思い暮らしておりますから、そのわたしが死んだと聞けば、どんなにお嘆きになることか。そんな不孝をなすよりは、なにはともあれ母と一緒に…と思い返し、ひそかに国沢の婚家を出たものの、泰泉寺への道筋も分からず、そうこうするうち日が暮れて、今さら立ち帰ることもできません。今夜をどのようにして明かせばいいものか」
 涙にくれる女を見て新三郎、
「気の毒に。そのような事情ならば、それがしが送り届けて差し上げよう」
「なんと嬉しいこと。さりながら、お連れいただきたくとも、国沢から追手がかかるのを恐れて道なきところをあちらこちらとさ迷い歩き、足を痛めてしまいました。今は一歩も歩けません。やはり今宵は、この道の傍らで明かすことにいたします」
「安心なされよ。それがしが負うて参ります。これも他生の縁、さあこちらへ」
 前へかがんで背を向ければ、女はにっこり微笑んで、
「では仰せのままに…」
と、後ろから乗りかかってきた。
 ところが負っていくうちに、女はにわかに重くなり、あたかも大盤石に圧されるようだ。不思議に思って振り向くと、あの美しかった女が、額に二つの角を生やした、背たけ七尺ばかりの鬼となっていた。
 鬼は眼をらんらんと輝かして、
「わが行く先はこちらぞ」
と、新三郎の髷を掴んで宙に跳び、いずこかへと飛行しようとした。
 新三郎は騒がず、腰の刀を抜いて上向きに払った。鬼はそれに怯んだか、新三郎を田の中へどっと落とした。
 落とされてしばらくは目を回したが、やがて人心地を取り戻した。起き上がって四方を見回すに、もはや鬼の影もない。夜もほのぼのと明けてきた。『このまま帰るのは面目ない』などと思案したものの、そうしていても仕方ないので、とぼとぼと帰路についた。

 泥にまみれて歩く新三郎を見て、人々はみな不審に思った。新三郎は我が身に起こったことをありのままに語ったが、だれも信じてくれなかった。
「そんな馬鹿なことがあるものか。古狸に化かされて田んぼに入り、泥にまみれた恥ずかしさに、ああ言っているのだ。さて、その転げ込んだ田を見に行って、大いに笑おうではないか」
 こんなことを話し合って、二人連れの者が小高坂をさして行くと、向こうから大名とおぼしき人と、その同勢がやって来た。
 二人が『誰だろう』と近づいて見たら、なんと吉良左京之進の在世の姿である。目が合って、はっと驚き馬から下りて、左京之進に、
「何某どの、久しゅうござる」
と声をかけられたところで、二人とも気を失った。しばらくして我に返り、あたりを見回したときには、怪しい一行の姿はなかった。

 その後、左京之進の怨霊がいたるところに現れた。人々は道筋で、あるときは鬼あるときは天狗、また女と変じ男となった霊に行き逢った。たちまち踏み倒されて目を回す者あり、憑依されて様々な妄語を言い罵る者もあった。
 初めの頃は、左京之進の領した蓮池の城下や小高坂の墓の辺りだけであったが、やがてはあの村この町と、怨霊の至らぬところはないありさまとなった。
 人々はこれを「七人みさき」と名づけて恐れた。七人とは、宗安寺真西堂・永吉飛騨守・勝賀野次郎兵衛・吉良彦太夫・城内太守坊・日和田与三左衛門・小嶋甚四郎である。左京之進を入れれば八人のところ、畏れ憚って数に入れないのだった。
 この事態は国主元親の耳にも届いたが、
「そんな噂は、女子供が天狗化物の話を針小棒大に言い広めるような類だ。論ずるに足りない」
と取り合わなかったので、怪異があっても、元親の耳に入れようとする者はいなくなった。

 しかし、怨霊はいよいよ国中くまなく現れた。大高坂の城内でも不思議が起こり、元親の目にも見え、耳にも聞こえることが度々あった。
 ここに至って元親も、怨霊が出るという話は本当だったとわかった。そして、『あの者どもが恨みをなすのももっともだ。一時の怒りに心迷い、多年の功臣を失った。我ながらあさましく、今さら如何ほど悔いても取り返しがつかない。せめて法事をなして怨霊を慰めたい』と思い至った。
 国分寺に数十人の僧を請し、さまざまな追善供養をもよおしたので、参詣の人が貴賤を問わず列をなし、見物の群衆が境内に群れあふれた。
 元親も参詣して、読経が始まった。みな鳴りをひそめて厳粛に聴聞する中、位牌が一斉に動きだした。親実の位牌を先頭に立てて順々に仏壇を下り、たくさんの器物もそれに列した。行列は後ろの山の方へ向かって、そのまま行方知れずとなった。
 元親は驚きあきれて、『ならば、国中すべての宗派の寺で法事をせよ』と命じた。時日を定め、二夜三日の勤行が行われたが、そのさなか、寺々の僧全員の首が右の方へ見返った形にねじれ、手足も硬直して動けくなった。ただ息をするばかりで三日三夜苦しみ、四日目の朝、一斉に元に戻った。

 元親は、天を仰いで途方に暮れた。いかにして怨霊を慰めたらよいやらと臣下に問うと、老臣たちが進言した。
「菅原道真の御霊を神に祀って鎮めた古事があります。これに倣って、神に祀られてはいかがですか」
 元親はもっともだと思い、さっそく何処に社を設けるかの詮議にかかった。すると、傍らにいた八九歳ばかりの童子がにわかに狂いだし、
「我は左京之進どのの御使いである。左京之進を神に祀ること、たいへん悦ばしく思う。木塚の山に社を建て、祭祀をなすならば、これ以上の祟りをなすことはない」
と叫んで走りだし、たちまち倒れて、しばらくすると正気に返った。
 これに奇異の思いをなした人々は、ただちに吾川郡の木塚の山に敷地を定め、宮大工を集めて建築にかかった。
 左京之進らの霊は、ほどなく完成した社に鎮め祀られたのである。
あやしい古典文学 No.1374