『渡邊幸庵対話』より

ジャコウジカ

 「麝香鹿(ジャコウジカ)」は、名前のとおり鹿に似た体つきの獣だ。
 ただし、人をはなはだ恐れて、一里も先に人を見ても逃げ隠れるので、生きた姿をはっきりと見たことのある者は、その生息地においても稀である。
 木から木へと飛び移り、じつに敏捷な獣だが、飛びそこねて沢などに落ちて死ぬことがある。その死骸が腐って徐々に川へと流れ出ると、川水がえもいわれぬ薫りを放つ。
 薫りをたどって死骸を見つければ、貴重な肝を得ることができる。「真結香」といって、医書にも載るものだ。

 「本物の麝香の住む山は、四方まで薫りが及ぶ」と、漢詩集『錦繍段』中の詩にはうたわれている。
 いっぽう、霊猫とか霊狸とかいう、麝香に似た匂いの獣猫もいる。これはむろん本物の麝香とは違う。
 今は長崎でもどこでも、麝香が人の手で作られ、薬種商はそれを購入する。本麝香がいたって希少であるためだ。
あやしい古典文学 No.1376