藤岡屋由蔵『藤岡屋日記』第六十三より

谷中天王寺化猫一件

 根岸幸新田の伊右衛門は、まずまずの暮らしぶりの百姓であった。男子が三人あり、二十四歳になる次男の名を元次郎といった。
 安政四年の正月末ごろ、伊右衛門の家に、一匹の猫が来て住みついた。白斑で並より小さい、美しい猫だった。尾の先が二股になっているところが、ちょっと変わっていた。
 元次郎はその猫をかわいがり、猫もまたよくなついて、夜は元次郎の夜具の上にのぼって寝た。

 そうするうち、元次郎はぶらぶら病になって、床についてしまった。
 猫が始終病人の夜具の上で寝ているのを見て、家族は『病気は猫の仕業にちがいない』と気づき、猫をよそへ連れて行って捨てた。
 元次郎は、いったんは元気になった。しかし、すぐに猫が帰ってきて、また夜具の上で寝た。
「今度は遠くへ捨てよう」と相談しているのを元次郎が聞きつけ、「私が連れて行って捨てるよ」と言い出した。病気なのだからと皆がとめたが、「どうあっても行く」と言い張った。伊右衛門が折れて「保養がてら出歩くのもよいか」と許したので、元次郎は猫を抱いて出かけた。
 母親が心もとなく思って尾けていくと、元次郎は家から少し先の庚申塚で猫を放した。猫はそのまま谷中の方向へ駆け出し、元次郎も後について駆けていった。
 母親は驚いて、引き留めようと追いかけたが、その速いこと矢を射るがごとくで、とても追いつけない。ついには見失ったので、急いで帰って事の次第を知らせた。家じゅうの者がみな駆け出し、探し回ったが、元次郎の行方は知れなかった。

 なすすべがないまま、三月二十七日、易者の晴雲堂に占わせたところ、
「来月の一日か二日ごろには見つかるだろう。もしそこで見つからなければ、その後に死んで出てくるだろう」と占った。
 また、根岸新田法印の占いもほぼ同様で、
「一日か二日ごろ見つかる。もし見つからなかったら、出家の傍から出る」とのことだった。
 これを聞いた伊右衛門が取り乱して大騒ぎするので、村の若者四十三人が鉦や太鼓で「元次郎や〜い」と迷子呼びに出た。伊右衛門の長男は、日光古峰ヶ原の古峰神社にお伺いを立てに行った。
 若者たちは、商売を休んで七日間探したが見つからなかったため、元次郎の人相と失踪時の着衣を記した張り札をあちこちに立てた。

 四月八日、谷中天王寺東門の番所へ、犬が人の腕を咥えて来た。門番が追い払うと、腕を咥えたまま竹藪の方へ走った。
 大勢で犬の跡をつけていったところ、藪の中に人の死骸があった。腹が喰い破られ、手足も喰い切られていた。顔面も喰い散らされていて面体は分からなかったが、脇にあった衣類の縞柄などが、張り札にある元次郎のそれと似通っていたから、伊右衛門方に知らせた。
 伊右衛門はすぐに駆け付けたが、なにしろ面体が分からないので確かなことが言えない。そこで母親を呼んできて見せると、
「三嶋祭礼のときに着せてやった単物(ひとえもの)を下着にしておりますから、せがれに相違ありません」と言い、さらに「かように無残な姿ゆえ、なにとぞ内々に引き取って葬ってやりたいと存じます」と人々に頼み込んだ。
 当時、天王寺は住職のいない寺だった。前年までいた住職は山王観理院に移り、あとは留守居の者に預けられていた。それで、観理院に知らせることもせず、両親の頼みを承知して、内々に引き取らせた。

 両親はさっそく葬送の支度にかかったが、菩提寺の真言宗円明山西蔵院に知らせたところ、地元だけに事件のいきさつをよく知っていて、
「変死であれ、行き倒れであれ、そのほかであれ、死骸に疵がなければ内々に葬ってもよいが、このたびのような姿では後日のお咎めも恐ろしく、とうてい葬ることはできない」と断ってきた。
 さらにまた、名主の糸川伊八も話を漏れ聞いて「御検使をお願いすべし」と言うので、しかたなく死骸をもとの藪へ戻し、東叡山代官田村権左衛門に訴え出て、四月十日に検使が済んだ。
 天王寺からも月番寺社奉行松平右京亮に届けを出し、十日昼過ぎに大検使が来た。取り調べは夜明けまでかかって、ようやく済んだ。
 十二日、やっと西蔵院へ葬送し、死骸はとどこおりなく葬られたという。

 それにしても、元次郎の兄が八日に古峰ヶ原に着くと、同じ日に天王寺門番所から伊右衛門方に知らせてきたのは、一つの不思議というものだろう。
あやしい古典文学 No.1382