筆天斎『御伽厚化粧』巻二「千日醉眠酒」より

千日酔眠酒

 摂津池田は、古代から酒造が行われた地で、我が国に冠たる酒処である。
 応神天皇の御世、呉国から呉織(くれはとり)・漢織(あやはとり)という織姫が渡ってきてこの地に住んだので、「呉織の里」ともいうらしい。
 二人の織姫が日本に渡ったとき、杜梁栄という酒造りの名人も一緒に来て、やはり池田に住んだ。この人は、大昔、中国で初めて酒を造った杜康という人の末孫であった。
 池田の西を経巡るようにして、猪名川という大河が流れている。その水は清浄にして味わいがすばらしく、杜梁栄が汲んで酒を造ると、中国の酒にまさる美味であった。
 以来、一族の者が代々酒造を生業とし、今に至っても万願寺屋・大和屋など歴々の酒屋が軒を並べて繁盛している。
 そんな杜梁栄の子孫の一人に、杜五郎という者がいた。酒を仕上げる技量は先祖を越え、どのような悪酒でも腐酒でも、みごとに美酒になおした。
 杜五郎が仕込んだ酒はすべて、夏のどんな酷暑にあっても火を入れることなく、いつまで置いても味わいがよくなりこそすれ、悪く変質することはなかったという。
 また、杜五郎の家には「千日酒」という秘蔵の酒があった。これを呑めば千日酔うといい、先祖の杜梁栄が中国から携えてきた名酒で、甕に入れて口を固く封じ、代々人に呑ませずに持ち伝えてきたものだった。

 そのころ泉州堺に、蛇腹猩助という生まれつきの大酒呑みがいた。古くから杜五郎と親しく、しょっちゅう池田まで来て酒を呑んだ。
 あるとき猩助が言うことには、
「我は一日に数升の酒を呑みながら、いっこうに酩酊することがない。伝え聞くところでは、貴公の家に先祖杜梁栄が伝えた名酒があるとか。我らはもう何年も親しく語る仲なのに、まだ呑ませてくれないのはどういうわけだ。どうか今日、普通の酒を呑む前に、その千日酒とやらを、一杯ふるまってくれよ」と。
 杜五郎は、一度は断った。
「あれは人間が呑むものではないのだ。酒のよさは、しばらく酔って気分転換できるところにある。呑みすぎれば二日酔いして、翌日は頭痛で枕が上がらない。まして千日も酔えば、家業を妨げ心身を傷めるばかりで、何のよいこともなかろう。それゆえ、先祖代々固く封じてきた。けっして一杯を惜しむのではない。どうか分かってくれ」
「いや、そう言われても、我は一生酒に酔いとおしたい。千日酔う酒を呑むのは、これ以上ない楽しみで、我が生涯の本望だ」
 猩助はこのように言って、いっこうに諦めない。杜五郎はやむをえず甕を出して封を開き、小盃に一杯注いで呑ませた。
「先祖よりの言い伝えでは、この酒を呑む者は、酔って千日眠るという。呑んだら早々に堺へ帰りたまえ」
 猩助は喜んで帰途についたが、三里ばかり行ったら酔いが回って歩けなくなった。下人に雇わせた駕籠に乗って堺へと急いだが、帰り着いたときには酔い潰れて意識なく、そのまま死んでしまった。
 妻子は大いに悲しみ、親類みな打ち寄って野辺送りした。かくして、猩助の骸は土中に葬られた。

 三年が過ぎた。
「そろそろ酔いが醒めるころだ。堺まで様子を見に行くとしよう」
 杜五郎が猩助の家を訪ねて、
「長らくご無沙汰いたした。さて、猩助どのの酔いは大方醒めましたか」
と訊くと、女房は涙にくれつつ応えた。
「我が夫は三年前、大酒にて相果てました。おとといが三回忌でございました」
 杜五郎は驚いた。
「いや、それは千日酔って眠る酒を呑んだのです。まことに死んだのとは違います。亡骸はどんなふうに葬ったのですか」
「そのまま土中に埋めましたが…」
「よかった。それなら大丈夫でしょう」
 ただちに家人たちを引き連れて埋葬場所に至り、土を掘らせた。そこの地面は汗ばんだようになって草を蒸らし、泥土は温かくて酒気がはなはだしかった。
 棺を開けて中を見ると、猩助が目を覚まし、大あくびして頭を叩きながら言った。
「じつに気持ちよく酔った。ゆっくり寝入ってしまったな。それはそうと、誰が悪さをして、こんな窮屈なところに押し込んだのだ」
 よろよろ這い出て、杜五郎の顔を見て、
「いやあ、貴公は何を呑ませた。ただ一杯でこれほど酔わせるとは…。もう昼過ぎではないか。いったい何時かな」
と言うのには、妻子も家人も胆を潰さんばかりだった。その酒気の効力を畏れ、また醒めて後も快い霊酒の徳に感動したのだった。
 このとき、猩助の酔い醒めの酒気は、その場の人々の鼻を衝いた。みな酔って家に帰り、三月ばかりも眠り込んだそうだ。

 まさに神仙不死の名酒といえよう。これに酔った猩助を土中に埋めたが、睡眠の内は死ななかった。不思議なことだ。杜五郎は酒の甕を固く封じて、二度と人に呑ませなかったという。
 なお、酒を醸造する者を「酒杜氏」と呼ぶのは、この杜五郎より始まって、今に言い伝えられた呼び方である。
あやしい古典文学 No.1404