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林羅山『怪談全書』巻之三「袁氏」より |
袁氏 |
中国、唐の代宗の広徳年間のこと。 孫恪という人が、洛陽の魏王池のほとりを歩いていて、唐突に一軒の大きな家の前に出た。 道行く人に尋ねると、教えてくれた。 「ここは、袁氏という女性の家ですよ」 恪は門前に立ち、案内を乞うたが、内から応える者はなかった。 門の脇に簾を下ろした小屋があったので、とりあえずそこに入って様子をうかがっていると、一人の女が門の戸を開けて出てきた。たいそう美しい女だった。 これは主人の娘だろうと思って隠れ見ていると、突然女が簾をかかげて、恪の姿を見て驚き、また門内に入ってしまった。 かわって青衣を着た少女が出てきて、 「どうしてここへ来たのですか」 と問うた。 「道を行くうち、ふと迷い込んでしまったのです。無礼をお許しください」 少女は内に入って、恪の返事を取り次いだ。 やがて先の女が、青衣の少女を伴って現れた。その美貌を見て少女に尋ねた。 「この方は、どなたですか」 「袁長官のお嬢様です。まだお嫁にいらっしゃってないんですよ」 女と少女はいったん引き下がったが、また出てきた。女は先ほどよりもいちだんと美しく見えた。恪は茶菓をすすめられ、 「旅でお疲れであろう。当分ここで休息なさるとよい。要るものがあったら、青衣に申し付けるように」 と言ってもらって、大いに喜んだ。 孫恪は独身だったので、少女を立会人として、袁氏と結婚した。 もと貧しかった恪は、袁氏の数々の宝を得て豊かになり、いまや車馬も衣服も輝くばかりだった。友人たちは不審がったが、そのわけを恪はけっして語らなかった。 そんな都での暮らしが三四年も続いたとき、恪の親類の帳閑雲という者が、恪に会いに来て、一晩を共に過ごした。 帳閑雲は、恪の顔をつらつら見て、 「おまえ、顔色がよくないな。物の怪が憑いているのではないか」 と疑うのだった。 「いや、そんなことはない」 と否定したが、 「人は陰陽の気をうけて魂魄をおさめている。陰陽が衰えて魂魄が戦うとき、その色はたちまち外に表れるのだ。実際ひどい顔だぞ」 と言いつのる。恪は動揺して、袁氏を妻にしたことを白状した。 「それだよ、恪。すぐに手を切れ。別れるんだ」 「いや、袁氏には身寄りがないから、別れたら独りぼっちになってしまう。それに、賢くて才覚のある女で、今までに随分恩を受けている。別れを言い出すなんて、とてもできない」 「邪気の恩など、受けるべきではないのだ。おれはここに、験力絶大な宝剣を持っている。これを示せば、邪鬼は必ずや滅びるであろう」 結局、恪は剣を受け取ってしまった。 剣は隠しておいたけれども、袁氏はすぐに覚って、恪を責めた。 「貧乏だったあなたに宝を与え、すでに夫婦となったのに、今、恩を忘れ、義を知らぬふるまいを企てるとは。あなたは畜類にも等しい」 恪は恐れと恥で赤面し、 「これは我が本意ではないのだ。帳閑雲がそそのかしたことだ。頼む、許してくれ。今後は誓って二心を抱かない」 と謝って、雨のごとく涙を流した。 袁氏は問題の剣を取り出し、へし折った。彼女の手にかかっては、剣は蓮根よりも脆かった。恪はいよいよ恐れ、その場から逃げ走ろうとしたが、袁氏は笑って引き留めた。 「怖がることはありません。あなたに従って何年も、一緒に暮らしてきた私です。安心してください」 その後、恪は帳閑雲に会いに行った。 「君の言うことをきいたせいで、えらい目に遭ったよ。あやうく虎口を免れたといったところだ」 「はて、何があったのだ。今、剣はどこにあるのか」 恪がつぶさにいきさつを語ると、閑雲は仰天して、 「お、おれはもう知らない。関係ないからな」 と震え声で言って、二度と恪に会おうとしなかった。 その後の袁氏は、二人の子を産み、よく家を治めた。 十数年が過ぎたころ、恪は長安に官職を得て、袁氏や子供たちとともに赴任することになった。 旅の途中、瑞州というところに至ると、袁氏は、 「このあたりの大河のほとりに、決山寺という寺があります。そこの僧は古い知り合いで、別れて数十年になりますから、この機会に行ってみたいです」 と言った。 恪は供え物を用意し、一家で決山寺を訪れた。 袁氏は喜んで、二人の子の手を引き、老僧の部屋へ向かった。案内なしでも行き方がよく分かっているようだった。 老僧に対面すると、袁氏は持参の碧玉の首環を手渡した。 「もとはこの寺のものゆえ、お返しします」 その意味を、老僧は分かったらしかった。 ひとしきり時を過ごしたころ、数十匹の猿の群れが庭の松の枝に来て啼き叫び、苔を掴んで躍動した。 それを見る袁氏の眼には、哀しみの色が浮かんだ。やがて筆を執り、詩を作って壁に記すと、筆をなげうち、二人の子を撫でてやりながらさめざめと泣いた。 やがて恪に向かって、 「今をかぎりに、もうお会いすることはできません」 と永の別れを告げると、着ている衣を引き裂き、化して老猿となった。 老猿は木に躍り上がり、枝々を跳んで遠ざかっていった。山の高いところに至るともう一度振り返り、それきり去ってしまった。 恪は驚きと嘆きで、魂を失ったかのようだった。 しばらくしてから二人の子を抱き寄せ、哀しみの中で、老僧に委細を問うた。 老僧は、昔を思い出しつつ語った。 「愚僧がまだ少年僧だったころ、あの猿を飼っていました。玄宗帝の開元年間、勅使の高力士がこの寺に来て、猿の賢いのが気に入り、絹をもって猿を購うと、都に連れ帰って玄宗帝に奉ったのです。猿は上陽宮で飼われていましたが、安禄山の乱が起こって後、その行方は知れなくなったと聞いていました。 今日、奇しくも猿と再会し、化身の怪しみをまのあたりに見ました。この碧玉の首環は、当寺で常に猿の首にかけていたものです」 恪の嘆きはいよいよ深く、長安に向かうのをやめて、二人の子とともに道を引き返した。 |
あやしい古典文学 No.1428 |
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