十返舎一九『列国怪談聞書帖』「佐伯友尾」より

佐伯友尾

 その昔、水尾帝に仕えて和歌の才で世に知られた佐伯蔵人友尾は、美男で色好みであることでも有名だった。

 友尾はある日、嵯峨の大沢の池に釣り糸を垂れた。魚籠(びく)を獲物でいっぱいにして帰路につこうとしたころには、夕月が嵐山にさし昇り、その光で緑の池水が夢幻のようにきらめいた。
 思わずうっとりして、下僕が携行した酒と食物を再び開け、盃を取ってしばし時を過ごした。
 その間に、一匹の小蛇が萱草の中から這い来て、友尾の足の指を咥えて引いたが、景色に見とれていて分からなかった。
 下僕が、主人が水中に落ちかかっているのに驚いて袖を掴んで引きとどめたとき、友尾ははじめて気づいた。はや半身は水中にあり、慌てて岸に上ろうとするも、水底には、そうはさせじと強く捉え、いっそう引き入れようとするものがあった。
 そうこうするうち、友尾の体は水辺の草葉に隠れて見えなくなった。
 下僕の知らせで親族や友人が駆けつけた。池に舟を浮かべ、潜りにたけた者を指揮して、水底の隅々まで探させたが、死骸を見つけることすらできなかった。

 後日、友尾の親友の朴足(えたる)という人が、大沢の池のほとりを通りかかった。
 折しも日が西山に沈みゆき、夜風が衣に吹き通るなか、うそ寂しいばかりの池水の上に、しきりに朴足を呼ぶ声があった。
 不思議に思って辺りを見回すと、大きな眼の痩せ枯れた男が、蓮の葉を被り、藻を身にまとって、水面に半身を現していた。
 朴足はきっと睨みすえ、太刀の柄に手をかけた。
「さては、友尾を水に引き入れた池の妖怪だな。我が手で打ち殺してくれよう」
 怪しい男は、それを遮って言った。
「待て。私は友尾だ。過日、河伯の娘に懸想され、池に引き入れられて、無理やり婿にされたのだ。しかし、私はずっと故郷を忘れられない。妻はそれを知って、私の傍を一時も離れなかったが、何を思ったか昨日から広沢の池へ出かけた。私一人になったのを幸いに、先刻より君が通りかかるのを待っていたのだよ」
 そして一個の魚籠を手渡して頼んだ。
「これを私の家に届けてくれないか」
 その時にわかに池が波立ち、水勢激して、友尾の名を呼ぶ声があった。
「はや妻が戻ったらしい。さらばだ」
 友尾の姿は、たちまち池中に消えた。

 朴足は呆然として帰宅し、その後、友尾の家を訪ねて委細を語った。
 かの魚籠を開けると、濡れた短冊に、「池水も濁りてし世はうき草の手向けにだにもあはずなりけり」と詠われてあった。
 もはや跡を訪ねてくれる人もいないと世を恨む歌の意に、友尾の父は身をもんで嘆き、悲しみのやり場のないまま、再びかの池に舟を浮かべ、執拗に池中の探索を試みた。
 ちょうど干ばつが続いて池は渇水し、水草も枯れ果てるほどだったから、底の隅々まで砂泥を掘り穿ってみると、一つの大きく滑らかな岩に穴が開いていて、そこに水が吸い込まれていくようだ。
 怪しんで穴の中を覗いたら、小蛇が白骨の上にとぐろを巻いているのが見えた。
「友尾さまは、この妖蛇に捕らわれなすったにちがいない。おのれ、主人の仇…」
 下僕たちは、槍を取って刺そうとしたが、蛇は目にもとまらぬ速さで身を翻した。
 にわかに黒雲が起こり、雨降りしきった。池上を稲妻が走り、山を崩すばかりの雷鳴が轟いた。小蛇の形は龍と変じ、虚空を翔けて、何処へともなく去った。人々は、恐怖のあまり顔色土のごとく化して、ただ一散に逃げ帰った。

 今、愛宕山の背後にあたる水尾の崖道に、「宇賀」と書した額を掲げた小さな祠がある。「宇加女神(うかめじん)」を祀るというが、また、大沢の池の妖蛇を祀るという説もある。
 後者は、多くの歌書にあるように、「宇賀神は蛇の形に変じて人にまみえるゆえに、蛇をさして宇賀という」ことからの説であろう。どちらの説も確かなものではない。
 なお、友尾の名は、その祠の傍らの、割れて苔むした石碑にのみ残っているとのことだ。
あやしい古典文学 No.1446