速水春暁斎『怪談藻塩草』二之巻「戸浪山異人の話」より

握り飯を奪う老人

 越後の国に、戸浪山という大山がある。
 この山には神が住み、山奥へ入った者は再び出てこられないとの言い伝えがある。だから木こりも猟師も、あえて踏み込むことをしない。
 ところが、戸浪山にほど近い村に、深見八郎という大胆不敵の浪人がいて、
「あの山の奥には、とりわけ見事な樹木が多くあるだろうに、山神がいるからと手を付けないのは、宝の持ち腐れというものだ。わしが山奥へ入って、怪異の有無をただしてやろう」
と、久しく飼いならした犬を連れ、家に代々伝わる名剣を携えて、戸浪山に分け入った。

 奥へ奥へと行くほどに、道なき道に大木などが横たわり、その険阻のほどは言いようもない。しかし剛毅な八郎は、遮るものを跳び越え跳び越えしつつ進んだ。
 やがて、前方に樹木生い茂ってわずかな空き地もなく、ひたすら暗くて身を入れる余地さえない場所に至った。
 すると、今まで一緒に進んできた犬が、ひどく臆して八郎の足元にすくみ込んだ。八郎は立腹して、
「ここまで来て、引き下がってたまるか」
と犬を掴むと、樹木の中へ投げ入れた。
 一瞬の後、犬は鳴き叫びながら八郎の顔面に向けて投げ返されてきた。
 八郎は恐れず、また犬を投げ入れたところ、今度は、犬を引き裂いて投げ返してきた。

 八郎は怒り狂って、密生した樹木を猛然と伐り払い伐り払い、さらにまた分け入ると、その間はなんの怪しいこともなく、ふと開けた場所に出た。
 松も柏もほかの樹木もなく、石を敷きならべたような地面で、おそろしく清浄だ。そこをずっと行き過ぎると、屏風を立てたような大岩があった。岩にやっとこさよじ登って四方を眺めると、まことに仙境というべき景勝の地である。
 八郎はしばしそこで休むこととし、あたりの小柴を集めて火を焚いた。火にあたって体が温まると、いちだんと闘志がわき起こった。
 そこで、まずは腰から握り飯を取り出して腹ごしらえに取りかかったが、なにか近くで人の気配と物音がする。怪しんで耳をそばだてると、思いがけずすぐ後ろに小さな洞穴があって、中から嬰児ほどの背丈しかない男が出てきた。顔は幼童のようだが白髪で、おそらく老人だろうと思われた。
 八郎はそれを見ても全く動ぜず、握り飯を食おうとした。すると小さい老人は、手を出して奪おうとする。
「なにをする、無礼者っ」
 怒った八郎は、握り飯を刀に突き刺して、老人の眼前に差し出し、
「もし取ったら、ただ一突きに刺し殺してやる」
と構えた。
 しかし老人は、何の苦もなく一口に喰った。それを突こうとした八郎は、五体が屈まって動けず、ただ居すくまっていた。
 老人は、握り飯を刀身もろとも喰い終わり、しずかに洞穴に帰っていった。
 八郎の体はようやく動けるようになって、ほうほうの体で家まで戻ったが、そのまま病みついて、百日余りも寝込んだ。

 小さい老人に喰われた刀の残りを見たという人から、この話を聞いた。
 この老人、何者だろうか。まったく奇怪なことである。
あやしい古典文学 No.1451