『続故事談』第六より

夢の楊貴妃

 中国の宋の時代、益州に張喩という人がいた。ことのほか風流を愛し、また好色であった。つねに詩歌を心の友として、景勝の地を逍遥した。

 張喩は、唐の玄宗の寵姫であった楊貴妃の有様を人の話に聞いて、はるかに憧れ、時代を超えた恋心に悩んで悶々とした。
 離宮跡に臨んでは、昔を想って涙を流した。貴妃が殺害された馬嵬(ばかい)の堤のほとりへ行っては、はらわたが千切れるほどに悲しんだ。そんなふうに想い悲しんだけれども、同時代の人ではないから、相手に気持ちを伝えるすべがなかった。
 いたずらに嘆き、むなしく恋い焦がれて年月を過ごすうち、ある時、角髪(みづら)を結った童子が来た夢を見た。
「楊貴妃さまのお召しです。すみやかに参上なさいませ」
 張喩は夢の中で喜ぶこと限りなく、童子を先に立てて道を急いだ。
 やがて宮殿に着いて、玉の簾をくぐり、錦の帳(とばり)に臨んだ。貴妃は寝台の上にあり、張喩は下にひざまずいた。
 張喩は、年来の思いのたけを飾ることなく率直に告白した。貴妃は慈しみの眼差しで親しく言葉を返し、そのさまは人間の女と変わるところがなかった。
 恋情がいよいよ高まり、貴妃の手を取って、寝台の上にのぼろうとしたが、なぜか身体が重くてのぼることができない。
 貴妃は、
「人間の身は汚らわしく卑しいから、わたしの寝台にのぼれないのです」
と言う。
 張喩は、せひとも身を寄せたいと懇願した。すると貴妃は侍者を呼んで、身もとろけるような香りの湯水を用意させ、張喩を沐浴させた。
 その後、貴妃が手を取って寝台に誘うと、身体がすっかり軽くなって、思い通りにのぼることができた。
 寝台での睦みあいは、人の世のそれに変わることがなかった。何もかも言葉にならない素晴らしさのうちに時を過ごしたが、別れの思いを述べ尽くさぬうちに、暁の風を聞かねばならなかった。
「人間界に帰らず、ここに留まりたい」
との切なる願いを、貴妃は許さなかった。許さなかったが、張喩への思いは深く、つらそうな気色で、ひとつの約束を残して去った。
「今日から十五日後、どこそこの場所で、ふたたび会いましょう」
 この言葉を聞いて、張喩は夢から醒めた。別れの涙はとめどなく流れ、独りの床に座りこんで嘆き悲しんだが、どうにもならないことだった。

 十五日たつと、約束の場所へ出かけた。
 そこはだだっ広い野原だった。行けども行けども霧がはてしなく流れるばかりで、人の姿がなかった。
 やっと一人の牧童に出会って、ためしに呼び止めてみると、牧童は、
「今朝、まだ暗い時分にこの野にいたら、朝霧の絶え間に神々しい天女が見えて、私を呼んで『ここに来て尋ねる者があったら、必ずこれを与えよ』と一通の手紙を持たせ、霧の内に隠れ、雲の中に入ってしまった。あなたがその人か」
と言って、手紙を渡した。
 張喩は、再び会えなかったことを悲しんだが、いっぽうで手紙をもらったことを喜んだ。
 心を静め、眼をぬぐって開き見た紙面に言葉は少なく、四韻の詩が記されてあった。その中の一句に、
  天上歓栄、雖可楽
  人間集散、忽足悲
とあった。
 すなわち、「天上の尽きることない歓楽や栄華は楽しいはずのものなのに、人の世の恋と別れを思うと、涙があふれてやみません」と。

 人の想いは、けっして空しいものではない。時の古今にも隔てられず、天界と人界の間もおのずから通う。まことに心を打つ話ではないか。
あやしい古典文学 No.1476