松崎堯臣『窓のすさみ』追加・巻之上より

ある大名の渡り小姓

 某大名が、渡り小姓を大勢召し抱えて、寵愛していた。
 「渡り小姓」とは、大名・旗本が小姓という名目で召し抱えた美少年で、その多くは男色の相手である。

 ある日、新参・古参の小姓らがうち交り、君前で酒を飲みかわした。
 大名も興に乗り、盃をとって酒を受けながら言った。
「汝ら、今このように快く戯れ遊んでいるが、百年の後までも我に供する者はおるか。その者に、この盃を差そう」
 他の戯れ言とは異なるから、みな返答のしようがない。座がさっとしらけてしまったとき、召し抱えられて間もない少年が、
「それがしがお供つかまつりましょう」
ときっぱり申し出た。
 大名は喜悦して、
「では差すぞ」
と盃を与え、また酒宴は盛り上がって終わった。
 その後ほどなく少年は禄を加増され、人々は少年のことを「お供する人」と呼ぶようになった。

 年月を経て、大名は重い病に臥した。
 「お供する人」はすでに大人の男になっていたが、人々は「その時が来れば、あの者は殉死するのだろう」と言い合った。
 やがて、大名は病没した。
 そこで皆「今日殉死か、明日こそ死ぬか」と待ち暮らしたけれども、いっこうにそんな気配がない。四十九日も終わろうとするころ、家老の一人が、
「そのほうは、殿に約束したことであるから、必ずや殉死するはずだが、もはや中陰も終わる。覚悟はあるであろうな」
と内々に尋ねたところ、男は答えた。
「それがし未だ新参の身にて、殉死つかまつるつもりはありません。先年『お供する』と申したのは、殿の御言葉が出てしばらく答える人がなく、座の無興が見るに堪えなかったため、御言葉に合わせて声を挙げたのです。あの場の近侍の中には、譜代の人、前々からはなはだ御寵愛を受けた人が数多くあったのに、誰ひとり供をお受けしなかった。殿は上げた盃が下ろせず、お困りでした。そこを察してとっさに返答申し上げたのを、殿もお分かりであったはず。後に加増いただいたのは、それがしの機転への御褒美だったと思いますよ。
 そもそも殉死というなら、近侍の中で格別の御恩を被って威勢のあった人々が殉死すれば、三人とは残らないでしょう。まずはその方々にお尋ねになってはいかがか」
 男はこのことを文にも書き遺して、翌日、白昼に城下を立ち退いた。

 この進退のいきさつは隣国に聞こえて、男は他家に高禄で召し出されたとのことだ。
あやしい古典文学 No.1479