人見蕉雨『黒甜瑣語』二編巻之五「おわん物語」より

おわん物語

 土佐藩の家臣某の家に伝わる書に、『おわん物語』というものがある。古風にして興味深い内容だ。
 ここにそのひとくだりを述べるが、じつに久しい昔の話である。

       *

 子供たちが集まって、
「おわんさま、むかし話をなされませ」
とせがむと、老尼は語り始める。

 ……わが父親は、山田去歴(やまだきょれき)といって、石田治部少輔三成どのに仕え、もとは近江の彦根におった。治部どの御謀反のとき美濃の大垣城に籠り、われら家族も一緒に城に入った。
 城内では不思議なことに、真夜中になると、誰とも知らぬ三十人ばかりの声で、
「田中兵部どのぉ。のう、田中兵部どのぉ」
と喚き、そのあと ワァッ! と泣く声が夜な夜な聞こえた。おぞましや、おぞましや、恐ろしいことじゃった。
 その後、家康さまの大勢の兵が城の堀の向こうから攻めかけて、昼も夜も戦いとなったが、その寄せ手の大将が田中兵部どのだったのじゃ。
 城から石砲(いしびや)を撃つときは、城内に触れまわった。なぜかというに、石砲を撃つと城も櫓もゆるゆる動き、地が裂けるように凄まじい。気の弱い婦人などはたちまち目を回して難儀するから、先に触れておいた。その触れがあると、稲光を見て雷の鳴るのを待つような心地じゃった。

 戦いの始まったころは生きた心地もなく、我も人も、ただ恐ろしや、怖やとばかり思うたが、後にはなんともなくなり、われらもみな天守で鉄砲玉を鋳た。
 また、味方の取ってきた首を天守に集めて、それぞれに覚えの札をつけた。首にお歯黒を付けてやることもたびたびじゃった。なぜかというに、むかしはお歯黒首は位の高い人と見なされた。それゆえ、首が白歯だと「お歯黒をつけてくだされ」と頼まれた。そのころには、首も怖いものではない。血腥い首の中で寝たこともあった。

 ある日、寄せ手が鉄砲をさかんに撃ちかけてきて、「いよいよ今日落城か」などと大騒ぎしたことがあった。老職の武士が来て「敵はみな退きました。もはやお騒ぎなさるな。静まりたまえ、静まりたまえ…」と言うさなか、鉄砲玉が十四歳の弟に当たって、そのままビリビリとなって死んでしもうた。さてもさても、酷いことを見たものじゃったのう。
 その日、わが父親の持ち場へ矢文が来て、
「去歴どのは、家康さま御手習いの師匠をなさった縁もあるゆえ、城を逃れたくば御助け申す。どこへなりとも落ちていかれるよう、道々の手配も十分に言い渡してある」
とのことじゃったそうな。
 「明日こそ城が攻め落とされる」と皆々力を落とし、「われらの命も明日までか」と心細い思いをしていたとき、父親が密かに天守に来て、
「こっちへ来い」
と、母とわれを北の塀の脇まで連れて行った。
 そこから梯子をかけて塀を越え、石垣の下まで釣り縄で吊り下ろされて、盥(たらい)に乗って堀の向こうへ渡った。その人数は、両親とわれと主だった家来四人ばかり。残りの家来は置いてきたのじゃ。
 城を離れてしばらく北へ行ったところで、母はにわかに陣痛して女の子を産んだが、家来がそのまま田の水で産湯をつかわせて裳裾に包み、父親が母を肩に負うて、青野ヶ原の方へ落ちていった。
 怖いことじゃったのう。なむあみだ、なむあみだ……

       *

 このほかの老尼の話は、彦根での暮らしを語って今の世の華美を戒めるものだ。
 そのため、土佐の人は埒もない昔話をすることを「彦根を言う」と諺にして笑うと、津村黙之の筆記にある。
あやしい古典文学 No.1488