只野真葛『むかしばなし』より

ぶす

 「附子(ぶす)」とは、鳥兜(とりかぶと)の根から作る薬だが、使い方によっては猛毒となる。
 わが父が若年のころ医術を学んだ師匠格の人で、遠藤三省という町医者がいた。父があるとき、病気だといって引き籠っている三省を訪問したところ、三省は父を間近に呼んで、声をひそめて言った。
「じつは、このほど大失敗をしたのだ。某家の病人に附子を少々用いてみたく思って、生附子を三分、粉にして持参し、一分を試しに呑ませたところ、病人が即死した。家族は驚き、毒薬を飲ませたと疑って詰め寄ってくる。それをなだめ、全然毒ではないと示すべく、『目の前で飲んでみせましょう』と言いざま附子を口中にはたき込んで立ち上がった。ところが、門を出るころから腹の痛みが堪えがたく、帰宅してようよう床に這い込んで、見てのとおりの有様だ。わずかの附子のために、ほとんど死にそうな目にあっている。必ずや附子をおろそかに思ってはならない。ともあれ、この事故は医家の恥。他言無用だぞ」
 そのとき外から来客の音がして、
「御不快とのことで、お見舞いに上がった」
とやってきたのは、かねてより三省が懇意にする老医師だった。病人の部屋に入り、容態を見て薬法を聞くと、
「それではなかなか治るまい。さあさあ、附子を…」
と勧めた。病人が小声で、
「あァ、附子はいやだァ」
と言うのを聞いて、父は可笑しさがこらえられなかったという。

 三省は、もともと堀田相模守の所領の百姓で数代続く富家だったが、学問を身につけ医道を好み、百姓の人別を抜けないまま髪を剃って江戸に出て、気楽に医者をやっていた人だった。
 ところが、どういういきさつからか、郷里の代官に深く憎まれて、突然に持山を伐り荒らされた。慌てた妻子から江戸に知らせが来たから、急いで帰って、藩庁に苦情を申し立てたが、取り上げられなかった。
 そうするうちにも江戸の病家からしきりに呼ばれるので、とりあえず江戸に戻ったところ、今度は、先祖からの墓所を掘り返し、石碑を打ち砕くなど、傍若無人の狼藉をはたらかれた。
 またまた妻子から知らせが来ると、三省は、
「もはや堪忍できぬ。めざす敵は相模守殿だ」
と憤り、藩庁ではなく公儀に訴え出た。
 このことを聞いた堀田屋敷は、捕り方を差し向けて、三省を召し取った。
 公儀から、
「三省は一度公儀へ願い申し上げた者だから、当方の牢に入るのが筋と心得る」
と引き渡しを求めてきたが、相模守は、
「重要な囚人を、お取り逃がしになったら困りますゆえ」
と拒んだ。しかし、重ねて公儀から、
「それは言い過ぎというもの。当方の牢が、どうしていい加減な扱いをするものか」
と言ってきたので、ついに折れて引き渡した。
 公儀の吟味は、
「三省の申すこと、いちいちもっとも。代官の所業は無法である。三省が代官の手に落ちては、不慮の死を遂げることもあろう」
と格別の同情を寄せた。
 それで訴えは取り上げられたが、そのころ金森家という十万石の大名が、やはり百姓の騒動で取り潰しになっていた。いかに訴えがもっともでも、老中方の思惑として『十万石の大名を幾つも潰した』などと言われるのは避けたいこともあり、三省の勝訴とはしにくく、しばらく吟味継続の扱いとなった。
 ところが三省は、入牢の日からひどい下痢で、何も食えない大病の容態だった。日ごとに弱っていくので、保養のため、監視付きで牢外の下宿に移された。
 わが父は、自分の師匠のような人であるから、下宿まで訪ねていった。三省は、寝床が無人に見えるほど痩せ細って、なるほど重症のようだった。
「どうしましたか」
と尋ねると、
「うむ、不思議なことがあった。先ごろ附子を僅かばかり用いて死にかけたゆえ、これは自殺用に使えると思った。だから捕り方が来たとき、附子の粉一包を下帯に挟んで行った。牢入り後に呑んだら、ごく普通の下痢を起こして腹中が空になり、そののち食を断って病気のように見せかけたものの、心中はいたって爽快であった。思うに我は、人の試みぬことを試みたのだ。年若い人の修業のために伝えたい。よくぞ尋ねてくれた」
と嬉しげだった。
「附子は、少しならば害がはなはだしく、多ければ障りがない。このところを、よく工夫して用いるべし。よいな」
 わが父が帰った後、三省は、大病人と思って番人が気を許しているのを見すまして、夜中ひそかに寝床から起き出た。それから墨をすって、枕頭の障子に黒々と、
「大家さん わしゃ遠藤へ 行くほどに 跡をゆるりと 尋ね三省」
と書いて、行方をくらました。
 ここに及んで、相模守から奉行所へは、
「それ見たことか。言ったに違わず、逃がしてしまわれた。ただちに三省を見つけ出すか、または御役を退かれるか、二つに一つである」
と、火のように催促が来た。
 町奉行衆は当惑して、草の根を分けるように厳しく詮議したが、行方は杳として知れなかった。

 三省の弟子に、随分有名な町医者がいた。
 その者が奉行所に呼ばれ、いろいろ訊問されたが、少しも臆した色なく、つぶさに申し上げたという。
「その方の宅へは、立ち寄らなかったか」
「私は市中に住まいしておりますゆえ、わざわざお尋ね者が立ち寄ることはありません」
「どこへ向かったと思うか」
「八王子に享宇という弟子がおりますから、山を越えてそちらへ行ったはずです。しかし享宇には老母があり、孝子ですから、家にかくまうことはいたしません。師弟のよしみで、門口で茶漬け飯をふるまったりはすると思います。そこから三里ほど隔てたところにも弟子がおり、金持ちで少し馬鹿ですから、その家に四五日泊まって身体を養い、金を借りて出ていったことでしょう。となると、畏れながら、もはや捕らえることは無理かと存じます」
 奉行所で経路をたどって確かめたところ、すべてそのとおりだったという。こんな口を利く町医者も今時いないと、父は感心していた。
 三省を下宿まで訪ねた父にも、疑いがかかったらしい。時々おもてからふと人が入ってきて、下男下女に実家を聞いたりしたそうだ。
 だれも本当のことを答えないでいたが、一人律儀な女がいて、正直に語ってしまった。すると翌日、その女は、
「母が病気なので、三四日休みをいただきたい」
と願い出た。
 やがて休みの日が過ぎて、戻ってきた女は、顔色が真っ青だった。
「母が病気というのは偽りで、ほんとうは町奉行所に呼び出され、お上の手から逃げた三省とかいう人の行方を知っているかとお尋ねを受けて……、もう、恐ろしや恐ろしや」
 他の者は顔を見合わせ、
「われらは、よくぞ実家を語らなかったことよ」
と言い合ったそうだ。
あやしい古典文学 No.1498