加藤曳尾庵『我衣』巻十六より

五寸釘の金蔵

 文化四年五月二十五日の夜十二時過ぎ、近所の魚屋源治という者が、筆者の庵の戸を叩き、
「先生、急病人だ」
と呼ぶ。とりあえず行ってみると、若い者が大勢、わいわい立ち騒いでいた。
 何事かと問うに、前野村の金蔵という二十四五歳の男を、どうした諍いからか、魚屋の前で若い者たちが取り巻き、袋叩きにした。
 そのうちの一人は、古材木で背後から叩いた。材木には五寸釘が打たれてあったが、叩いた男はそれを知らず、釘を左肩の横骨の上に三寸ばかり打ち込んだ。そのはずみで材木は割れて折れ、釘ばかりが頭を出していた。

 釘は、いかにしても抜けなかった。金蔵は剛毅者で、顔色も変えず、
「早く抜いてくれ」
とひたすら催促する。そこで大勢の若い者が、
「体に立った釘が抜けないはずがない」
と、釘抜で代わる代わる引くのだが、まるで作りつけたかのようにびくともしない。
「吉川屋萬蔵は力持ちで評判だから、頼んで抜かせよう」
と誰かが言った。
 萬蔵を呼び寄せて、抜けない釘を見せると、
「小さい釘抜では抜けまい。この近隣で、大きな釘抜のある家はないか」
「奈良屋には大釘抜があるぞ」
 さっそく奈良屋の戸を叩いて借りてきて、まず一人が頭を押さえ、背中に一人が乗り、両腕を取って肩のところに板を当てた。三人力はあろうかという萬蔵が、板に足をかけて踏ん張り、大釘抜で挟んだ釘を力の限り、やっ! という掛け声とともに引いて、勢いあまってどうと尻もちをついた。
 誰しも『よかった、抜けた』と思ったが、そうではなくて、釘の頭を挟み切っただけで、釘は相変わらず肩に突き立ったままだった。

 皆々もはや途方に暮れて、
「これではどうにもならん。どうすりゃいいんだ」
と言い合った。すると一人の小賢しい男が、
「結局これは、その道に通じた大工に頼むのがよかろう」
と案を出し、次郎兵衛という大工を呼んできた。
 治郎兵衛は、
「たとえ骨に立ったとしても、入ったものが抜けないはずがない」
と言って支度をととのえ、中くらいの釘抜で少しこじるようにして引いた。しかし、先に釘の頭を挟み切っていたから、つるりと滑っていっこうに抜けない。
 いよいよ手段がなくなったが、金蔵は落ち着いていて、気力が衰えることもなく、
「どんな方法でもよいから、抜いてくれ」
と頼み続けた。
 金蔵の村へも使いが走り、父親と親類が夜明け前にやって来た。

「釘抜で引くばかりでは所詮抜けまい。千住の骨接ぎのところへ連れていこう」
という話になって、明け方に出発した。なんと金蔵は自分の足で歩いて行った。こういう男を「大丈夫」というのだろう。
 骨接ぎの家では、様々な道具を用いていろいろ試みるも、抜けなかった。
 最後には、釘の頭のもげているところへヤスリ目を入れるなどしてから、金蔵を柱に縛りつけて、弟子三人で引いたが、びくともしない。骨接ぎも呆れ果てて、これ以上はできないと断った。
 帰路にはずいぶん腫れも出たので、途中から馬に乗せて帰ってきた。

 さて、相手方からは詫び言と内済にしてほしい旨の申し出があったけれども、釘が抜けなくては一命も危ぶまれるので、示談どころではなかった。
 そこへ地元の博徒の親分が、仲介を買って出た。
「おれが抜いてやる。その上で和解させよう」
 今度は釘を二枚の板で挟み、大釘抜を横ざまに板に押し当てながら、えい! と曲げ捻った。ところが、
「やっ、しまった」
 釘は肉の中でぽっきり折れた。もうどうしようもない。
 しかし、その後あまり痛みがなく、食事・歩行もできた。死ぬことはなさそうだと思われたので、とりあえず傷が癒えるまでの仲直りを取り計らった。
 翌々日、金蔵は我が庵まで、礼を言いに歩いて来た。まことに世にもまれな丈夫な男である。
あやしい古典文学 No.1500