阿部正信『駿国雑志』巻之二十四下「狒々」より

怪獣ヤマワラワ

 言い伝えによれば、駿河国志駄郡藤川村の山奥には、「山丈(ヤマワラワ)」と呼ばれる怪獣がいる。

 島田に住む市助という材木商は、その深山に何度も入った人だ。
 ある日の未明、市助は案内の者とともに谷畠の里を出て、知者山の険阻を越えた。八草の里に至る途中の深林を行くとき、しらじらと夜が明けかかった。
 ふと前方を見ると、数十歩先に、身の丈三メートルばかりの怪しい者が、木に寄りかかって立ちながら、左右を見回していた。
 案内の者がささやいた。
「あれが山丈です。見つかると命が危ない。近づいてはいけません。声を立ててはいけません。早く木の陰に隠れなさい」
 市助は言われたとおりにして、日の昇るのを待った。
 しばらくすると、怪獣は木のもとを去り、峰の上をさして疾走した。その形は人のようで、全身黒く毛が生えていた。顔も人のようだが、眼がきらめき、唇が反り返り、長い髪を背中に垂らしていた。
 怪獣が立っていた木のところには、十センチくらいに噛み砕かれた篠竹の破片と、獣毛の交じった糞が、うず高く残されてあった。木の幹の怪獣の背丈くらいのところには、皮を剥きとった跡があった。
「山丈は、木の皮と篠竹を好んで喰うのです」
と、案内の者が説明した。

 なお、別の説では、この怪獣は「狒々(ヒヒ)」であって山丈ではないとも言われる。
あやしい古典文学 No.15045