『太平百物語』巻之二「十作ゆうれひに頼まれし事」より

腹を破って

 大坂上本町に、毎夜毎夜幽霊が出ると噂が立って、夜が更けると人影が絶えたが、ある夜、十作という者が、幾兵衛という者を連れてそこを通った。

 谷町という所で、背後から二人に呼びかける女の声がしたから、十作は幾兵衛に、
「これは話に聞く幽霊にちがいない」
と注意して、二人一緒に振り返った。しかし、そこには誰もいなかった。
 また少し行くと、再び呼び止めるので、立ち止まり、今度は目を凝らしてよくよく見ると、二十歳くらいの色青ざめた女の姿が浮かび上がった。腰から下はなく、髪を乱してさめざめと泣いていた。
 幾兵衛は臆病者なので、見るやいなや、ワッ! と叫んで卒倒した。
 十作は強気の男で、恐れず踏みとどまり、
「我らを呼ぶのは何者か。近くに寄らば斬り捨てるぞ」
と気色ばんで身構えた。
「お待ちください。わたしはこのあたりの者で、嫉妬のために奉公先の奥方に殺されたのです。その恨みが晴れやらず、夜ごとに出ては人に呼びかけるのですが、皆私の姿に恐れて、こたえてくれませんでした。幸いあなたは言葉を交わしてくださって、嬉しくてなりません。願わくば、力になってください」
 女の言葉に、十作は戸惑った。
「わしがどうして幽霊の力になれようか。そなたはもはや、恨みを忘れたまえ。そうすれば、跡をねんごろに弔ってあげよう」
「いえ、お願いしたいのは簡単なことです。わたしは腹に子を孕んでいて、その子がいまだに死なず、胎内が苦しくてなりません。あなたの刀で、わたしの腹を破ってください。恐れることはありません」
 さすがの十作も、これには気味悪くなって、逃げ腰で首を横に振った。
「思いもよらぬことだ。勘弁してくれ」
「もし腹を破ってくださらないなら、永くあなたに付きまとって恨みを申しましょうぞ」
 十作は、女のたいそう怨めしげな顔に怯んで、仕方なく脇差を抜き、恐る恐る近づいて、すっぱりと腹を断ち破った。
「やれ、嬉しや。本望かないました」
 喜びの声とともに、幽霊の姿は消え失せた。

 十作は急いで幾兵衛を呼び起こし、肩に担いで、いっさんに逃げ帰った。
 その後どうなったかは知らない。
あやしい古典文学 No.1516