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松浦静山『甲子夜話』三篇巻之七十二より |
蝶の戸渡し |
ある人が、 「『蝶の戸渡し』ということがありますね。御存知ですか」 と尋ねた。筆者が、 「聞き知っているし、かつて船で玄界灘を行くとき、この目で見たよ」 と応えると、その人は、 「じつは私も玄界灘で見ました」 と言ったのだった。 知らない人のために説明しよう。まず「戸渡し」とは何か。 「戸」は、二つの海岸が隔たって向き合っていることをいう。「由良の戸」「阿波の鳴戸」「藤戸」、我が領の「平戸」の類だ。また、「洋(なだ)」の意で、海の広いところを指すこともある。「渡し」は、間を渡っていくことだ。 蝶は軟弱な羽をはばたかせて、荒海の上をはるか対岸まで凌ぎ渡る。人はその柔にして遠きに及ぶのを称し、「蝶の戸渡し」と呼ぶのだ。 ただし、このことがあるのは、晴天で風がなく、海が静かなときである。蝶はその機を知って、ただ一羽、あるいは二羽連れだって、遠く波上を越えて志す地に渡っていく。 海面を見わたしても、その行方は定かでない。蝶の心は測りがたく、どこを指して飛ぶのか知れないまま、ただ天地間の一小事として眺めるばかりだ。 なお『本草綱目』には、『嶺南異物志』から引用して、 「南海に舟を浮かべて暮らす人々は、蒲筵の帆ほどもある大きな立羽蝶(タテハチョウ)を見る。この蝶から得られる肉は八十斤、食べごたえ十分で美味この上ない」 と書かれている。 これは巨蝶であって、戸渡しする蝶とは比較にならない。 |
あやしい古典文学 No.1520 |
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